ヤクルト選手専任時代
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1990年、新人の中では1位指名の西村龍次と古田がユマの一軍キャンプメンバーに選ばれた。取材陣からは「即戦力の西村と古田が、どれ位の力を出せるかで今年のヤクルトの戦力アップにつながるか解る」と評価される一方で、野村はキャンプでも記者に対して「メガネを掛けているとマスクがズレる」と語るなど、古田への評価はマスコミと野村とで温度差があった。キャンプ終了後、野村は前年の主戦捕手だった秦真司と中西親志の二択から当面の正捕手を秦真司に定め、4月7日の開幕戦は秦がスタメン出場し古田を控えに回した。しかし野村は秦の捕手としての能力を買っておらず、前年には飯田を正捕手として育成する構想すらもっていた。そして秦は打撃力を活かすために三塁にコンバートする方針だったが、広沢克己を三塁に回す為にコンバートを延期し、やむなく秦を暫定起用した。ところがやはり秦はリードや守備での不安を露呈し、第三捕手兼代走としてベンチ入りしていた飯田が4月24日に急遽二塁にコンバートされていたこともあり、4月28日に古田が初めてスタメンで出場する。古田をこの時期にスタメンに抜擢した理由について、野村は「秦や中西のリードに納得できなかったので仕方なく「古田、お前行け」と命じたのがきっかけだった」と述べている。6月上旬までは秦と併用されていたが、新外国人ドウェイン・マーフィーが離脱してそのポジションが空くと野村は秦を外野にコンバート。スタメンに定着した古田の実力はライバルチームからも高く評価されるようになり、新人ながら監督推薦(藤田元司監督)でオールスター出場を果した。そして、試合に出るようになると野村は古田を試合中に叱るようになるが、ここでも古田は持ち前の負けん気を発揮し「どうせ怒られるなら近くにいようと思って「すいませんここに座らせてください」と言って近くに座るようになりました」とポジティブな姿勢を示した。また、当時について「その時に違う指揮官だったり「力と力のガチンコだ」とかばかっり言われていたら僕もそういう選手になっていたと思います。たまたまそこで出会った指揮官がそういう強い気持ちとか攻撃的な気持ちを持つのは当たり前で、それに加えて頭を使えと「頭使えたら弱いやつでも勝てる」という考えだったので僕も若かったですし、非常に勉強にもなりましたね。非常に腑に落ちましたし、そういう意味ではいい刺激を与えていただいたと思っています」と古田自身の野球観の変化を語っている。シーズン後半は中西と併用されたが古田は攻守両面で中西を上回り、正捕手の地位を確かなものとした。大矢明彦以来となる新人の盗塁阻止率リーグ1位(.527)を記録してゴールデングラブ賞受賞を果たし、課題とされていた打撃面でも334打席に立って打率.250、26打点と及第点の数字を残した。 先輩捕手だった八重樫は「古田がレギュラーになってピッチャーとキャッチャーがよく話をするようになったと思います。若い投手が多かったし、古田とも年齢が近かったから、試合後にも自発的にミーティングをするようになっていたね。それまでは"一方通行"だったけど、その点は大きく変わった」「古田の存在はとても大きかったですから。古田の高い要求に、しっかり応える好投手たち。野村監督時代はバッテリーを中心にしっかりとした野球をしていた。そんな印象がありますね」と古田を称えた。 1991年、オールスターゲーム第1戦(東京ドーム)では相手走者の盗塁3度を全て刺し、MVPを受賞。シーズンでは落合博満との競り合いの末、最終戦に出場した古田が再逆転し打率.340で首位打者を獲得。首位打者を獲得した捕手は野村以来史上2人目、セントラル・リーグでは史上初であり、捕手による打撃3部門(打率、本塁打、打点)のいずれかのタイトル獲得は野村、田淵幸一に次ぐ史上3人目だった。 当時の4番広沢克己は古田と落合の首位打者争いについて「ペナント最終盤に古田の打率が落合さんよりわずかに上だったので、本当は最終戦も休むはずでした。野村さんはああ見えて優しいところがあり、自分も現役時代に激しいタイトル争いをしたので、愛弟子、それも同じ捕手の古田に何とかタイトルを取らせてあげたかったんです。選手も同じで、チーム全員が古田に首位打者を取らせたいと思っていた。だからこそ、中日とヤクルトの最終戦では批判を怖れることなく、落合さんを全打席で敬遠した。ところが落合さんが広島とのダブルヘッダーで6打数5安打の固め打ちをして、首位打者に躍り出た。古田が再逆転するには最終戦に出てヒットを打たなくてはなりません。強いプレッシャーの中、試合前の古田は緊張しながら準備した最終戦の1打席目でヒットを放ち、落合さんをわずか3毛差でかわし、見事に首位打者になりました。あの重圧の中、よく打ったものだと思う」と語っている。 1992年、6月6日から7月11日にかけて24試合連続安打を記録。同年のオールスターゲーム第2戦(千葉マリンスタジアム)では、オールスター史上初のサイクル安打を記録し、MVPを受賞した。シーズンでは全試合出場を果たし、リーグ3位の打率.316、リーグ2位タイ・自己最多の30本塁打、リーグ5位の86打点を挙げるなど攻守にわたって活躍し、ヤクルトの1978年以来14年ぶりとなるリーグ優勝に貢献した。日本シリーズ、翌1993年の日本シリーズ(対西武ライオンズ)にも出場した。 1993年シーズンは2年連続となる全試合出場を果たすなどチーム日本一の原動力となり、シーズンMVPに選ばれた。この年の盗塁阻止率.644は現在も破られていない日本記録である。 1994年は4月14日の対広島東洋カープ2回戦で前田智徳のファウルチップを受けて右手人差し指を骨折し、シーズン序盤から長期離脱、結局76試合の出場、打率.238、3本塁打、19打点という成績でチームも4位に終わる。 1995年、公式戦全試合に出場。オリックス・ブルーウェーブとの日本シリーズではイチローとの対戦が注目を集めた。ミーティングではイチロー対策に多くの時間を割き、試合でも配球を工夫してイチローを抑え、2年ぶりの日本一となった。同年オフ、当時フジテレビのアナウンサーだった中井美穂と結婚。 1997年は全試合に出場し、4番打者としてリーグ3位の打率.322、本塁打は9本ながら勝負強い打撃でリーグ6位の86打点を記録するなど活躍。再び日本シリーズを制覇し、捕手として初めてセ・リーグのシーズンMVPと日本シリーズMVPの両方を受賞した。 1998年には通算1000試合出場を達成したものの、打撃がやや不調でチームも4位に終わった。同年限りで恩師・野村がヤクルト監督を退任。オフにフリーエージェントの権利を行使してヤクルトと5年契約を結び、労働組合日本プロ野球選手会会長にも就任した(プロ野球再編問題参照)。 若松勉が監督に就任した1999年は5度目の打率3割を達成し、同年行われた2000年シドニーオリンピックの野球競技・アジア最終予選たる第20回アジア野球選手権大会の日本代表にチーム最年長選手として選出された。2000年は、五輪の本大会には出場できなかった。ヤクルトは3季連続の4位を喫したが、自身は2度目のシーズン盗塁阻止率6割を達成した。 2001年、首位争いの中で迎えた8月28日の対中日ドラゴンズ戦(神宮)の9回表、左膝後十字靭帯を損傷する全治3週間の重傷を負った。8月30日に出場選手登録を抹消され、9月17日までの19試合を欠場。復帰当初は主に代打での出場だった。9月24日に先発復帰した際には膝の関節が過度に曲がらないよう、後部のベルト部分にパッドの付いた特製のレガースを着用していた。10月6日に4年ぶり、自身5度目のリーグ優勝を果たした。シーズンでは松井秀喜と首位打者を争い、自身2番目・リーグ2位の打率.324を記録するなど活躍。同年の日本シリーズでは自身2度目のシリーズMVPを受賞した。 2002年4年ぶりに10本塁打に届かなかったが打率3割を記録した。また満塁では11打数8安打(打率.727)を記録するなど満塁での勝負強さが光った。 2003年開幕直前に右手薬指を骨折したが完治しないまま開幕戦を強行出場する。6月28日、対広島戦で日本タイ記録となる1試合4本塁打・4打席連続本塁打を記録。シーズンでも先発マスクは一試合だけ欠場しただけで打率こそ2年ぶりに3割を割ったが1995年以来の20本塁打以上を記録した。 2004年開幕から打撃好調でタイトル争いにも加わっていたが、上記にあった通り球界再編による選手会の活動が激務で日に日に成績は下降。なんとか通算8回目となるシーズン打率3割を残した(これが現役最後の規定打席到達だった)。39歳になるシーズンでの打率3割達成は史上3人目、捕手としては史上初であり、打率.306は岩本義行と門田博光に次いで年齢別歴代3位、148安打は岩本と並んで年齢別歴代1位だった。一方で盗塁阻止率はリーグ最下位の.259を記録するなど、肩の衰えが顕著となった。 2005年4月24日(対広島戦、坊ちゃんスタジアム)、捕手としては野村克也以来史上2人目、大卒・社会人を経てプロ入りした選手としては史上初の通算2000本安打を達成。しかし、4月27日の対読売ジャイアンツ戦にて、左睾丸部打撲で全治1週間の怪我を負う。これをきっかけに体調を崩し、扁桃腺炎を発症して出場選手登録を抹消された。さらに8月19日にも左大腿部裏を肉離れするなど、このシーズンは2度にわたって戦線を離脱し11年ぶりに規定打席未到達となり、小野公誠や米野智人ら後輩捕手に出場機会を譲った。10月5日には通算1000打点を達成した。
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