ヤクルト選手専任時代とは? わかりやすく解説

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ヤクルト選手専任時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 06:20 UTC 版)

古田敦也」の記事における「ヤクルト選手専任時代」の解説

1990年新人の中では1位指名西村龍次古田ユマ一軍キャンプメンバーに選ばれた。取材陣からは「即戦力西村古田が、どれ位の力を出せるかで今年ヤクルト戦力アップにつながるか解る」と評価される一方で野村キャンプでも記者に対してメガネ掛けているとマスクズレる」と語るなど、古田への評価マスコミ野村とで温度差があった。キャンプ終了後野村前年主戦捕手だった秦真司中西親志二択から当面の正捕手秦真司定め4月7日開幕戦は秦がスタメン出場古田控え回した。しかし野村は秦の捕手として能力買っておらず、前年には飯田を正捕手として育成する構想すらもっていた。そして秦は打撃力活かすために三塁コンバートする方針だったが、広沢克己三塁に回す為にコンバート延期しやむなく秦を暫定起用した。ところがやはり秦はリード守備での不安を露呈し第三捕手代走としてベンチ入りしていた飯田が4月24日急遽二塁コンバートされていたこともあり、4月28日古田初めスタメン出場する古田をこの時期スタメン抜擢した理由について、野村は「秦や中西リード納得できなかったので仕方なく古田、お前行け」と命じたのがきっかけだった」と述べている。6月上旬までは秦と併用されていたが、新外国人ドウェイン・マーフィー離脱してそのポジションが空くと野村は秦を外野コンバートスタメン定着した古田実力ライバルチームからも高く評価されるようになり、新人ながら監督推薦藤田元司監督)でオールスター出場果した。そして、試合に出るようになる野村古田試合中に叱るようになるが、ここでも古田持ち前負けん気発揮し「どうせ怒られるなら近くにいようと思ってすいませんここに座らせてくださいと言って近くに座るようになりました」とポジティブ姿勢示したまた、当時について「その時に違う指揮官だったり「力と力のガチンコだ」とかばかっり言われていたら僕もそういう選手になっていたと思います。たまたまそこで出会った指揮官そういう強い気持ちとか攻撃的な気持ちを持つのは当たり前で、それに加えて頭を使えと「頭使えたら弱いやつでも勝てる」という考えだったので僕も若かったですし、非常に勉強にもなりましたね。非常に腑に落ちましたし、そういう意味ではいい刺激与えていただいた思っています」と古田自身野球観の変化語っている。シーズン後半は中西併用されたが古田攻守両面中西上回り、正捕手地位確かなものとした。大矢明彦以来となる新人盗塁阻止率リーグ1位(.527)を記録してゴールデングラブ賞受賞果たし課題とされていた打撃面でも334打席立って打率.250、26打点及第点数字残した先輩捕手だった八重樫は「古田レギュラーになってピッチャーキャッチャーがよく話をするようになった思います。若い投手多かったし、古田とも年齢近かったから、試合後にも自発的にミーティングをするようになっていたね。それまでは"一方通行"だったけど、その点は大きく変わった」「古田存在はとても大きかったですから。古田の高い要求に、しっかり応える好投手たち。野村監督時代バッテリー中心にしっかりとした野球をしていた。そんな印象ありますね」と古田称えた1991年オールスターゲーム第1戦(東京ドーム)では相手走者盗塁3度全て刺しMVP受賞シーズンでは落合博満との競り合いの末、最終戦出場した古田が再逆転し打率.340で首位打者獲得首位打者獲得した捕手野村以来史上2人目、セントラル・リーグでは史上初であり、捕手による打撃3部門(打率本塁打打点)のいずれかタイトル獲得野村田淵幸一に次ぐ史上3人目だった。 当時4番広沢克己古田落合首位打者争いについて「ペナント最終盤に古田打率落合さんよりわずかに上だったので、本当最終戦も休むはずでした。野村さんはああ見えて優しいところがあり、自分現役時代激しタイトル争いをしたので、愛弟子、それも同じ捕手古田に何とかタイトル取らせてあげたかったんです。選手も同じで、チーム全員古田首位打者取らせたいと思っていた。だからこそ中日ヤクルト最終戦では批判怖れることなく落合さんを全打席敬遠した。ところが落合さんが広島とのダブルヘッダーで6打数5安打固め打ちをして、首位打者躍り出た古田が再逆転するには最終戦出てヒットを打たなくてはなりません。強いプレッシャーの中、試合前の古田緊張しながら準備した最終戦の1打席目でヒット放ち落合さんをわずか3毛差でかわし、見事に首位打者なりました。あの重圧の中、よく打ったものだと思う」と語っている。 1992年6月6日から7月11日にかけて24試合連続安打記録同年オールスターゲーム第2戦(千葉マリンスタジアム)では、オールスター史上初のサイクル安打記録しMVP受賞したシーズンでは全試合出場果たしリーグ3位打率.316、リーグ2タイ自己最多30本塁打リーグ5位の86打点挙げるなど攻守わたって活躍しヤクルト1978年以来14年ぶりとなるリーグ優勝貢献した日本シリーズ、翌1993年の日本シリーズ(対西武ライオンズ)にも出場した1993年シーズン2年連続となる全試合出場を果たすなどチーム日本一原動力となり、シーズンMVP選ばれた。この年盗塁阻止率.644は現在も破られていない日本記録である。 1994年4月14日の対広島東洋カープ2回戦前田智徳ファウルチップ受けて右手人差し指骨折しシーズン序盤から長期離脱結局76試合出場打率.238、3本塁打19打点という成績チームも4位に終わる。 1995年公式戦全試合出場オリックス・ブルーウェーブとの日本シリーズではイチローとの対戦注目集めたミーティングではイチロー対策多く時間を割き試合でも配球工夫してイチロー抑え2年ぶりの日本一となった同年オフ当時フジテレビアナウンサーだった中井美穂結婚1997年全試合出場し4番打者としてリーグ3位打率.322、本塁打は9本ながら勝負強い打撃リーグ6位の86打点記録するなど活躍。再び日本シリーズ制覇し捕手として初めセ・リーグシーズンMVP日本シリーズMVP両方受賞した1998年には通算1000試合出場達成したものの、打撃がやや不調チームも4位に終わった同年限り恩師野村ヤクルト監督退任オフフリーエージェント権利行使してヤクルト5年契約を結び、労働組合日本プロ野球選手会長にも就任したプロ野球再編問題参照)。 若松勉監督就任した1999年5度目打率3割を達成し同年行われた2000年シドニーオリンピックの野球競技アジア最終予選たる第20回アジア野球選手権大会日本代表チーム最年長選手として選出された。2000年は、五輪の本大会には出場できなかった。ヤクルト3季連続の4位を喫したが、自身2度目シーズン盗塁阻止率6割を達成した2001年首位争いの中で迎えた8月28日対中ドラゴンズ戦(神宮)の9回表、左膝後十字靭帯損傷する全治3週間重傷負った8月30日出場選手登録抹消され9月17日までの19試合欠場復帰当初は主に代打での出場だった。9月24日先発復帰した際には膝の関節過度に曲がらないよう、後部ベルト部分パッド付いた特製レガース着用していた。10月6日4年ぶり、自身5度目リーグ優勝果たしたシーズンでは松井秀喜首位打者争い自身2番目・リーグ2位の打率.324を記録するなど活躍同年日本シリーズでは自身2度目シリーズMVP受賞した2002年4年ぶりに10本塁打に届かなかったが打率3割を記録した。また満塁では11打数8安打打率.727)を記録するなど満塁での勝負強さ光った2003年開幕直前右手薬指骨折した完治しないまま開幕戦強行出場する6月28日、対広島戦日本タイ記録となる1試合4本塁打・4打席連続本塁打記録シーズンでも先発マスクは一試合だけ欠場しただけで打率こそ2年ぶりに3割を割った1995年以来20本塁打以上を記録した2004年開幕から打撃好調タイトル争いにも加わっていたが、上記にあった通り球界再編による選手会活動激務日に日に成績下降。なんとか通算8回目となるシーズン打率3割を残した(これが現役最後規定打席到達だった)。39歳になるシーズンでの打率3割達成史上3人目捕手として史上初であり、打率.306は岩本義行門田博光次いで年齢別歴代3位148安打岩本並んで年齢別歴代1位だった。一方で盗塁阻止率リーグ最下位の.259を記録するなど、肩の衰え顕著となった2005年4月24日(対広島戦坊ちゃんスタジアム)、捕手として野村克也以来史上2人目、大卒社会人経てプロ入りした選手としては史上初の通算2000本安打を達成。しかし、4月27日の対読売ジャイアンツ戦にて、左睾丸打撲全治1週間怪我を負う。これをきっかけ体調崩し扁桃腺炎発症して出場選手登録抹消された。さらに8月19日にも左大腿部裏を肉離れするなど、このシーズン2度わたって戦線離脱し11年ぶりに規定打席未到達となり、小野公誠米野智人後輩捕手出場機会譲った10月5日には通算1000打点達成した

※この「ヤクルト選手専任時代」の解説は、「古田敦也」の解説の一部です。
「ヤクルト選手専任時代」を含む「古田敦也」の記事については、「古田敦也」の概要を参照ください。

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