野球事業
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1976年当時、横浜市の市長だった飛鳥田一雄は市民球場を計画し、当時川崎球場が本拠地だった大洋ホエールズに市民球場に移ってもらう構想があったが、40億円という予算捻出に苦慮していた。それを聞いた堤義明は「西武建設に工事を一任すれば、予算は一銭もいりません」と飛鳥田に進言した。通常、球場の年間指定席は1年更改が常識だが、堤は一挙に「通用期間45年(コンクリートの耐用年数による)、一席250万円で800席で20億円、テレビ会社やスポンサーで20億円」とした。800席は1ヶ月で売り切り、スポンサーも殺到し、逆にセレクトに頭を悩ますという始末だった。飛鳥田は横浜市民に税金投入無しで立派な野球場をプレゼントできた。 1978年にクラウンライターライオンズを買収し西武ライオンズのオーナーとなる(野球協約で複数球団の株式所有が禁じられているため横浜DeNAベイスターズの前身である大洋球団の株式を売却。飛鳥田一雄横浜市長の要請で横浜スタジアムの建設費用も西武グループが融資していた)。 西鉄後期や太平洋クラブ、クラウンライターと親会社が変わっても下位が続いていたライオンズだが、西武ライオンズ以降は最新鋭かつ充実した設備の導入や、当時監督だった根本陸夫に堤義明は「全てまかせるからやってくれ」という指示を出し、実際にチームづくりは監督の専権事項とし、フロントに口を出させないなどの改革の成果から徐々に順位を上げ、1982年(昭和57年)に24年振りの日本一に輝くと、その後リーグ優勝5連覇、日本一3連覇などリーグ優勝計16回、日本一計10回に輝いた。 また、人気面でも子供が好むブルーや手塚治虫のジャングル大帝の「レオ」をチームカラーやシンボルマークに採用するなど従来のイメージを一新。レオのキャラクター商品は人気を集め、特に帽子は1979年(昭和54年)から9年間で500万個も発売されるなど、関東の子供の間では読売ジャイアンツの帽子と人気を二分するほどであった。 サービス面でも、従来の野球場は前試合のゴミが多く残り、トイレも悪臭が座席にまで臭うほど汚かったが、義明の指示で清掃要員を大幅に増員。客席も既存他球場の座席幅45cmから西武球場では50cmと大幅に拡大するなど観客の快適性を重視、ゆったり清潔に観戦できるようにした。そして、西鉄時代から凋落の一途を辿っていたライオンズの観客入場者数は、買収前には年間70万人であったが西武ライオンズ発足初年度の1979年(昭和54年)に100万人を突破し、以後チーム成績の向上とともにパ・リーグ最高入場者数を更新し続け、1988年(昭和63年)には190万人を記録するなど「黄金時代」を築き上げた。 選手の待遇面でも改善し、西武球場隣接地に練習施設となる西武第二球場や選手が新人時代を過ごす「若獅子寮」を建設、寮に入る選手にはアンケートを実施し、壁紙やカーテン、絨毯の色など希望通りの内装にした。1985年に入団した新人・清原和博を寵愛し、球団に対しても『清原をマスコミやスキャンダルから守れ』と厳命し、ベンチの人間に対しても清原に都合の悪い采配ぶりなら激怒したとのこと。清原のスキャンダルが週刊誌を賑わせるたびに、グループ内部の社員が怒鳴られた。後に清原が数々の事件や騒動を巻き起こし、最終的には薬物使用事件まで起こす程までに清原を堕落させた要因の一つが堤の清原に対する過保護な姿勢であったともいわれている。現場のことは球団重役の根本陸夫に任せ、基本的には介入しない主義であったが、リーグ五連覇を逃した1989年にはシーズン終了報告に訪れた当時の森祇晶監督に対しマスコミの面前で「やりたければどうぞご勝手に。」と言い放ちその後も森批判を展開したため物議をかもした。森は内心忸怩たる思いであったという。また1993年(平成5年)には、球団買収後、待遇改善の代わりに「本業への専念」を理由に禁止していた選手のCM出演を「選手の一般層への知名度の向上」を理由に解禁するなど、方針転換を行っている。
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