1953年の阪急ブレーブスでは、1953年の阪急ブレーブスの動向をまとめる。
この年の阪急ブレーブスは、浜崎真二監督の7年目(途中就任の1947年含む)のシーズンである。
概要
浜崎監督が就任して7年、ビジターを戦前使用された「紺地にH」を復活[2]、チームは「今年こそ優勝」を期待されるものの4月を11勝13敗と平凡なスタートで、6月までは勝ったり負けたりの試合が続いた。7月に11勝2敗1分、8月に14勝9敗1分と勝ち越して借金を返済。借金返済のチームは9月以降の成績によっては優勝が期待されたが、9月8日から4連敗すると、翌週の16日からも4連敗。南海とのゲーム差が縮まるどころか広がり、終盤に9連勝含めて11勝1敗と大きく勝ち越すも時すでに遅く、最終的に南海の3連覇を許して2位に終わった。シーズン終了後、浜崎監督が辞任して西村正夫助監督が監督に復帰した。投手陣は3位の大映とタッチの差でチーム防御率は2.68と2位だった。打撃陣はチーム打率、盗塁数ともに2位だったが本塁打は西鉄に大きく引き離された。
チーム成績
レギュラーシーズン
1953年パシフィック・リーグ順位変動
順位 |
4月終了時 |
5月終了時 |
6月終了時 |
7月終了時 |
8月終了時 |
最終成績 |
1位 |
毎日 |
-- |
南海 |
-- |
南海 |
-- |
大映 |
-- |
大映 |
-- |
南海 |
-- |
2位 |
近鉄 |
1.0 |
大映 |
0.5 |
大映 |
南海 |
0.5 |
阪急 |
0.5 |
阪急 |
4.0 |
3位 |
南海 |
2.0 |
近鉄 |
1.5 |
近鉄 |
1.0 |
阪急 |
2.0 |
南海 |
4.0 |
大映 |
6.5 |
4位 |
西鉄 |
4.0 |
毎日 |
3.0 |
毎日 |
1.5 |
近鉄 |
5.0 |
近鉄 |
7.0 |
西鉄 |
13.5 |
5位 |
阪急 |
4.0 |
阪急 |
5.0 |
阪急 |
4.0 |
毎日 |
7.5 |
毎日 |
8.0 |
毎日 |
14.5 |
6位 |
大映 |
4.5 |
西鉄 |
7.0 |
西鉄 |
6.5 |
西鉄 |
11.5 |
西鉄 |
12.5 |
東急 |
20.0 |
7位 |
東急 |
5.5 |
東急 |
7.5 |
東急 |
8.0 |
東急 |
12.0 |
東急 |
13.5 |
近鉄 |
22.0 |
[1]
オールスターゲーム
できごと
選手・スタッフ
[3]
表彰選手
リーグ・リーダー |
選手名 |
タイトル |
成績 |
回数 |
レインズ |
盗塁王 |
61個 |
初受賞 |
脚注
注釈
出典
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1930年代 |
|
1940年代 |
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1950年代 |
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1960年代 |
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1970年代 |
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1980年代 |
|
1990年代 |
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2000年代 |
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2010年代 |
|
2020年代 |
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脚注
1936年から1946年までは「阪急軍」(1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。) 1947年から1988年までは「阪急ブレーブス」 1989年から1990年までは「オリックス・ブレーブス」 1991年から2004年までは「オリックス・ブルーウェーブ」(2004年オフに大阪近鉄バファローズと球団合併) 2005年から「オリックス・バファローズ」
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