1965年の南海ホークス では、1965年の南海ホークス の動向をまとめる。
この年の南海ホークスは、鶴岡一人 監督の20年目のシーズンであり、2年連続10度目のリーグ優勝に輝いたシーズンである。
概要
前年 日本一を達成した南海はこの年は今までにない絶好調で、開幕から5月末まで本拠地・大阪球場で19連勝、6月に入っても10連勝、1つ負けた後17連勝と大型連勝が続き、7月6日 に早くも「マジックナンバー 62」が点灯した。
7月12日 時点で53勝9敗、勝率8割5分5厘とし、2位の東映に23ゲーム差をつけていた。開幕からこれまでの間、完投は2試合だけで[3] 投手の分業制が確立されていない当時としては、鶴岡監督の継投策が際立つ結果となった。
後半はややペースダウンしたものの、9月26日に早くも優勝が決定。しかし前半の大独走の影響で観客動員数は前年から9万人近く低下した。この年、主砲・野村克也 が「三冠王 」を達成。「三冠王」は1938年 秋の巨人 の中島治康 以来27年ぶりで「長期シーズン」では初となった。投手陣はエース杉浦忠 が6月から救援に回ったものの、前年26勝のジョー・スタンカ や皆川睦雄 、防御率1位の三浦清弘 に加え林俊彦 が開幕から12連勝でローテーションに加わり、救援の新山彰忠 を含め5人が2桁勝利を挙げ、チーム防御率2.80はリーグ1位。打撃陣も野村、盗塁王の広瀬叔功 、ケント・ハドリ 、小池兼司 などが打ちまくってチーム打率・チーム本塁打数はともにリーグ1位だった。
連続日本一を目指した日本シリーズ は巨人に1勝4敗で敗退し(この年から「V9 」スタート)、オフに鶴岡一人 が1946年 以来務めた監督を勇退、蔭山和夫 ヘッドコーチが新監督に。だが蔭山新監督は4日で急逝、鶴岡監督が復帰となった。
チーム成績
レギュラーシーズン
1965年パシフィック・リーグ順位変動
順位
4月終了時
5月終了時
6月終了時
7月終了時
8月終了時
9月終了時
最終成績
1位
南海
--
南海
--
南海
--
南海
--
南海
--
南海
--
南海
--
2位
東京
2.5
東京
10.5
東映
18.0
東映
21.5
阪急
25.0
東映
22.0
東映
12.0
3位
西鉄
3.0
西鉄
10.5
東京
20.5
西鉄
26.0
西鉄
25.0
西鉄
22.5
西鉄
15.5
4位
東映
3.5
阪急
11.5
阪急
21.5
東京
28.0
東映
26.0
阪急
24.5
阪急
21.5
5位
近鉄
5.5
東映
12.0
西鉄
22.0
阪急
28.0
東京
29.5
東京
30.0
東京
25.5
6位
阪急
6.5
近鉄
15.5
近鉄
23.0
近鉄
31.5
近鉄
38.5
近鉄
42.0
近鉄
42.5
[2]
日本シリーズ
1965年 日本シリーズ
日付
試合
ビジター球団(先攻)
スコア
ホーム球団(後攻)
開催球場
10月30日(土)
第1戦
読売ジャイアンツ
4 - 2
南海ホークス
大阪球場
10月31日(日)
第2戦
読売ジャイアンツ
6 - 4
南海ホークス
11月1日(月)
移動日
11月2日(火)
第3戦
雨天中止
後楽園球場
11月3日(水)
南海ホークス
3 - 9
読売ジャイアンツ
11月4日(木)
第4戦
南海ホークス
4 - 2
読売ジャイアンツ
11月5日(金)
第5戦
南海ホークス
2 - 3
読売ジャイアンツ
優勝:読売ジャイアンツ(2年ぶり7回目)
[1]
オールスターゲーム1965
できごと
選手・スタッフ
監督 一軍コーチ 二軍監督・コーチ 投手 捕手 内野手 外野手 米国留学
表彰選手
ベストナイン
選手名
ポジション
回数
野村克也
捕手
10年連続10度目
小池兼司
遊撃手
3年連続3度目
広瀬叔功
外野手
3年連続3度目
堀込基明
初受賞
ドラフト
関連項目
脚注
注釈
出典
1930年代 1940年代 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代