1956年の南海ホークス では、1956年の南海ホークス の動向をまとめる。
この年の南海ホークスは、鶴岡一人 監督 (当時は山本一人)の11年目のシーズンである。同年のチームはシーズン96勝を挙げたが、同じく96勝を挙げた西鉄ライオンズ より負け数が1つ多く、勝率の差でパシフィック・リーグ (パ・リーグ)優勝を逃した[ 2] 。なお、この96勝はNPB でリーグ優勝を逃したチームとしては歴代最多勝利数である[ 2] 。
概要
当年及び近年のシーズン成績
年
成績
リーグ
勝
敗
分
率
平均得点
平均失点
開幕時監督
1956
レギュラー敗退
2位
96
52
6
.649
山本一人
1955
日本シリーズ敗退
優勝
99
41
3
.707
山本一人
1954
レギュラー敗退
2位
91
49
0
.650
山本一人
1953
日本シリーズ敗退
優勝
71
48
1
.597
山本一人
1952
日本シリーズ敗退
優勝
76
44
1
.633
山本一人
1951
日本シリーズ敗退
優勝
72
24
8
.750
山本一人
1950
レギュラー敗退
2位
66
49
5
.574
山本一人
1949
レギュラー敗退
4位
67
67
1
.500
4.90
4.96
山本一人
1948
リーグ優勝
優勝
87
49
4
.640
4.23
2.82
山本一人
1947
レギュラー敗退
3位
59
55
5
.518
3.23
3.14
山本一人
1946
リーグ優勝
優勝
65
38
2
.631
5.40
3.93
山本一人
前年の日本シリーズ で読売ジャイアンツ (巨人)に敗退したものの、チームは前年優勝のご褒美としてアメリカ合衆国 ・ハワイ で初の春季キャンプ を敢行。鶴岡監督は「海外キャンプで選手が何かを得てくれたら」と期待したが、この海外キャンプでほとんどの選手が観光に明け暮れて野球をないがしろにするなどの失態が続き、鶴岡監督は「お前ら何をやってる!」と激怒。これが影響したのかどうか定かではないが、岡本伊三美 や杉山光平 などの主力選手が奮起。チームは4月を首位で終えると、その後も首位を走り2連覇は秒読みと言われた。しかし、9月以降は西鉄ライオンズ に抜かれると僅差の争いに敗れ最終的に連覇はならなかった。この年から衰え始めた松井淳 に代わって野村克也 がレギュラー捕手となり、長く4番に座ることになった。対戦成績は西鉄も含めて全球団に勝ち越したものの、その西鉄には11勝10敗1分でわずか貯金1、4位の毎日オリオンズ には11勝9敗2分と貯金2しか稼げなかった。
レギュラーシーズン
1956年パシフィック・リーグ順位変動
順位
4月終了時
5月終了時
6月終了時
7月終了時
8月終了時
9月終了時
最終成績
1位
南海
--
毎日
--
南海
--
南海
--
南海
--
西鉄
--
西鉄
--
2位
毎日
0.5
南海
0.5
西鉄
阪急
1.5
西鉄
4.0
南海
0.0
南海
0.5
3位
西鉄
2.5
西鉄
2.0
毎日
2.0
西鉄
3.5
阪急
7.0
阪急
9.0
阪急
10.5
4位
近鉄
3.0
阪急
6.0
阪急
2.5
毎日
7.0
毎日
11.5
毎日
12.0
毎日
13.5
5位
阪急
4.0
近鉄
10.5
近鉄
18.5
近鉄
19.0
近鉄
22.0
近鉄
27.5
近鉄
29.5
6位
高橋
10.5
東映
13.0
東映
21.5
東映
25.0
東映
34.0
東映
36.5
東映
39.5
7位
東映
11.5
大映
17.5
高橋
23.0
高橋
29.5
大映
40.5
大映
41.0
大映
41.0
8位
大映
12.0
高橋
18.5
大映
24.5
大映
30.5
高橋
41.0
高橋
46.0
高橋
45.5
オールスターゲーム1956
できごと
選手・スタッフ
監督
コーチ
二軍監督
投手
捕手
内野手
外野手
[ 3]
表彰選手
脚注
注釈
^ 1955年に一塁手部門で受賞しており、通算2度目。
出典
1930年代
1940年代
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1945年は戦況悪化のため、公式戦を休止。合同チームによる非公式戦のみ開催。