金彦任重とは? わかりやすく解説

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金彦任重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/27 23:14 UTC 版)

金彦 任重(金 永徳)
基本情報
国籍 韓国
生年月日 1936年1月27日
日本京都府
没年月日 (2023-01-21) 2023年1月21日(86歳没)
韓国
身長
体重
178 cm
72 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1956年
初出場 1959年4月14日
最終出場 1963年7月15日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴

金彦 任重(かねひこ たかしげ、韓国名:김영덕金 永徳(キム・ヨンドク)、1936年[1]1月27日 - 2023年1月21日)は、在日韓国人京都府生まれ)のプロ野球選手(投手)・監督[2][3]

現役時代は南海ホークスでプレーし、大韓民国に帰国後はアマチュア球団やKBOリーグ球団で監督を務めた。

また、日本在住時、1958年に金彦任重とする前の名前として金彦 永徳を名乗っていた[4]

略歴

神奈川県逗子開成高校では甲子園大会の出場経験こそないものの、「県下随一の剛球投手」と評判であった[5]。その評判は南海監督であった鶴岡一人の個人後援会にも伝わり[5]1956年南海ホークスに入団[2][3]。背番号1[4]を与えられるなど期待されて入ったが、黄金時代の南海にあって、後に入団する杉浦忠ジョー・スタンカといった大物投手の陰に隠れ、一軍と二軍を往復する日々が続いた[6]

敗戦処理で何回か良い投球をすると、先発の機会を与えられたが、悪かったら代えられるという繰り返しであり、登板すると、相手のベンチから「やい、朝鮮人」と野次られることもあった[6]。金彦は張本勲が一流の選手で堂々と韓国人と言えるのが羨ましいなと思っており、相手に文句を言わせないだけの実力が無いのがもどかしかった[6]

4年目の1959年に一軍デビューし6勝を挙げ、1963年まで通算67試合(158.2回)に登板し、通算成績は7勝9敗、防御率3.57を記録[2]

キャンプでは元大阪YMCAの体育主事で「殺人トレーナー」と呼ばれていた松葉徳三郎が、当時としては画期的であったトレーニングコーチを招請され、腹筋、背筋などの基礎トレーニングを何分も持続して行わせる「松葉式体操」で選手を鍛え上げていたが、1961年にはテスト生として参加していた金星根と共にこの体操でみっちり絞られ、体力をつけた[7]

先の展望が開けず、実力的にも体力的にも限界を感じていた1963年秋、在日韓国人選手の活躍で韓国がアジア選手権を制したことを新聞で知ると、韓国代表として活躍する同じ日本出身の同胞に刺激され、「韓国は自分の国だから、最後の一、二年韓国に行って、楽しんで野球をやって、日本に戻って来よう」と、南海を辞めて、韓国に行くことを決意[6]。遠征で大阪に来ていた白仁天に「日本での野球を辞めて、韓国に帰りたいんだけど、どこか社会人のいいところがあったら、紹介してくれないか」[8]。と頼んだところ、後日、白は、「金彦さんは日本生まれで、日本で育ったんだから、日本に支店がある会社がいいのではないですか」と言って、白の京東高校時代の恩師・金日培が監督を務める大韓海運公社を紹介される[9]

1964年に帰国し、実業野球の大韓海運公社、クラウンビール韓一銀行で活躍[1]

日本のプロ野球で鍛えた実力は、韓国においては群を抜いており、大韓海運ではエースで4番で、スリークォーター気味のフォームから繰り出す、スライダー、シュート、シンカーといった変化球に、韓国の打者は全く歯が立たなかった[9]。1963年アジア選手権の優勝投手である申鎔均と共に韓国球界にスライダーやシンカーといった変化球を紹介した[9]。日本では野村克也のキャッチャーミットをめがけて放るだけで余裕がなく、時々ど真ん中に行くような失投があったが、韓国ではストライクからボールになる球で打たせるなど打者で遊ぶ事ができた[10]

1チーム48試合を戦うフルシーズン制が始まった1964年の実業団リーグでは防御率0.32、打率も.300で6位、本塁打も4本で2位となり、9月25日朝興銀行戦では完全試合も達成[10]

韓国で1、2年野球をしたら日本に戻るつもりでいたが、韓国に来てすぐに妻となる女性と出会ったことも大きく、結局、親兄弟の反対を押し切って、 韓国への永住帰国を決意[10]

韓一銀行時代の1970年選手兼任監督に就任し、指導者としてのキャリアをスタートさせる[1]

引退後はソウル奨忠高校天安北一高校で監督を務め、1971年アジア選手権では代表コーチを務めた。

1982年横浜商業出身の大韓野球協会前副会長でOBビールの役員であった崔寅哲の推薦[11]もあり、同年発足したKBOリーグ・OBベアーズ初代監督に就任[1]。崔寅とは、1971年のアジア選手権で団長と監督代行の間柄であった[11]。就任後は同じく日本出身の金星をコーチに招聘し[11]、金星と共に南海で教わった「松葉式体操」で基礎体力の強化を徹底させ[12]、シーズンを通して戦える力を身につけて[12]前評判はさほど高くなかったチーム[11]韓国シリーズ初代王者へと導いた[1]1983年退団。

OB退団後は1984年からはサムスン・ライオンズ監督(1984年 - 1986年)を務め、1985年には優勝へと導いた。

サムスン退団後は1988年、前年・前々年と最下位争いをしていたピングレ・イーグルスに「優勝請負人」として監督に招聘される。前年までとは違う好成績を残し、1988年4月7日のサムスン戦でKBOリーグ史上初の通算300勝を挙げた監督となったが、ピングレでは韓国シリーズに進出するものの準優勝に終わることも多かった。最終的にはリーグ優勝を果たせず、1993年のシリーズをもって、戦績不振の責任を取り、契約切れとなって退団。

ピングレ退団後はLGツインズで投手インストラクター(1996年)→二軍監督1997年 - 1998年)を務めたが、LGを最後に球界から退いた。

2023年1月21日死去[13][1]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1959 南海 43 8 0 0 0 6 6 -- -- .500 417 102.0 93 8 19 1 2 54 2 1 45 35 3.09 1.10
1960 8 3 0 0 0 1 2 -- -- .333 98 23.2 19 3 11 1 2 6 0 0 9 9 3.38 1.27
1962 15 2 0 0 0 0 1 -- -- .000 136 32.0 39 4 5 1 0 15 0 0 23 19 5.34 1.38
1963 1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 3 1.0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0.00 1.00
通算:4年 67 13 0 0 0 7 9 -- -- .438 654 158.2 152 15 35 3 4 75 2 1 77 63 3.57 1.18

記録

背番号

  • 1(1956年-1960年)
  • 20(1961年-1963年)
  • 40(1982年-1983年)
  • 60(1984年)
  • 70(1985年-1987年)
  • 99(1988年-1993年)
  • 96(1997年-1998年)

出典

  1. ^ a b c d e f NPB南海ホークスでデビューした韓国プロ野球元監督が死去”. 中央日報日本語版 (2023年1月22日). 2023年1月23日閲覧。
  2. ^ a b c 金彦任重”. 日本野球機構. 2018年4月16日閲覧。
  3. ^ a b 金彦任重”. 週刊ベースボールonline. 2018年4月16日閲覧。
  4. ^ a b ホークス歴代背番号1 秋山監督は9年間”. 日刊スポーツ (2011年11月29日). 2018年4月16日閲覧。
  5. ^ a b 大島裕史「韓国野球の源流―玄界灘のフィールド・オブ・ドリームス」新幹社、2006年10月1日、ISBN 4884000639、p269。
  6. ^ a b c d 「韓国野球の源流―玄界灘のフィールド・オブ・ドリームス」、p270。
  7. ^ 「韓国野球の源流―玄界灘のフィールド・オブ・ドリームス」、p163。
  8. ^ 「韓国野球の源流―玄界灘のフィールド・オブ・ドリームス」、pp.270-271。
  9. ^ a b c 「韓国野球の源流―玄界灘のフィールド・オブ・ドリームス」、p271。
  10. ^ a b c 「韓国野球の源流―玄界灘のフィールド・オブ・ドリームス」、p272。
  11. ^ a b c d 「韓国野球の源流―玄界灘のフィールド・オブ・ドリームス」、p295。
  12. ^ a b 「韓国野球の源流―玄界灘のフィールド・オブ・ドリームス」、p296。
  13. ^ ‘KBO 첫 우승 사령탑’ 김영덕 감독 별세”. sports. never.com (2023年1月21日). 2023年1月21日閲覧。

関連項目

外部リンク




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