1965年の広島カープ では、1965年の広島カープ の動向についてまとめる。
この年の広島カープは、2回目の白石勝巳 監督体制の3年目(途中就任の1953年 含み、通算13年目)のシーズンである。
概要
白石監督は、あまり大口を叩かない人だったが[2] 、珍しく就任3年目の日南キャンプ で「一度優勝してみたい」と意気込んでシーズン開幕を迎え[2] 、4月は一度首位に立つなど健闘した[2] 。今津光男 が加入したことで、今津を一塁に、古葉竹識 を二塁に、阿南準郎 を三塁に定着でき、内野守備が充実した[2] 。また投手陣は、大石清 、池田英俊 、安仁屋宗八 の先発組 に竜憲一 のリリーフ も当初はいい形になっていた[2] 。また最大の要因として、この年遠征に飛行機 を利用することになったことが挙げられる[2] 。前年までカープの遠征は全て汽車で、それも他球団が一等 に対してカープは二等 [2] 。「どだいワシらが勝てるわけがない」というヘンな劣等感に凝り固まっていた[2] 。肉体的な疲労度が全然違うのは当たり前だが、なぜそれまでやらなかったかといえば、言うまでもなく貧乏だったからである[2] 。「広島といえば12球団一の低給料」というイメージは当時からすっかり定着していた[2] 。今後の飛行機利用も「オールスター戦 のときまで優勝可能な線に残っていることが条件」とフロントから通達されていたといわれ、以降の飛行機利用については不明[2] 。5月以降巨人 が独走状態に入ったのに対してチームは6月時点で巨人に11ゲームも付けられて成績不振に陥り、白石監督は休養。後半戦から長谷川良平 投手コーチが監督に就任し、チームの指揮を執ることになった。しかし、35歳の長谷川青年監督には荷が重たかったのか一度も4位に上がることはなく、59勝77敗4分の借金18で5位に終わり優勝の巨人には31ゲームも離された。投手陣では大羽進 や池田、安仁屋などがそれなりの成績を収めたものの、エース大石清が不振にあえいだ。打撃陣では古葉や森永勝也 、大和田明 などがそれなりの成績を残したが、後の選手は不調だった。10月2日の阪神 戦でルーキー外木場義郎 が初勝利をノーヒットノーラン で飾ったのが唯一の明るい話題だった。計3度の日本記録を持つ外木場のこれが1度目だった[3] 。
チーム成績
レギュラーシーズン
1965年セントラル・リーグ順位変動
順位
4月終了時
5月終了時
6月終了時
7月終了時
8月終了時
9月終了時
最終成績
1位
大洋
--
大洋
--
巨人
--
巨人
--
巨人
--
巨人
--
巨人
--
2位
広島
0.5
巨人
0.5
阪神
4.0
阪神
2.5
阪神
5.5
中日
7.5
中日
13.0
3位
阪神
1.0
阪神
2.0
大洋
4.5
大洋
5.0
中日
6.5
阪神
10.5
阪神
19.5
4位
巨人
1.0
中日
4.0
中日
6.0
中日
9.0
大洋
10.0
大洋
17.5
大洋
23.0
5位
中日
5.0
広島
5.0
広島
11.0
広島
10.5
広島
16.5
広島
25.0
広島
31.0
6位
サンケイ
7.5
サンケイ
9.5
サンケイ
11.5
サンケイ
24.0
サンケイ
30.5
サンケイ
38.5
サンケイ
45.5
[1]
選手・スタッフ
オールスターゲーム1965
表彰選手
ドラフト
脚注
出典
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代