早稲田のエース
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 18:27 UTC 版)
1897年(明治30年)一家は横浜に転居し、野球に親しむようになる。旧制横浜商業学校、明治学院を経て1903年(明治36年)早稲田大学入学後、創設して三年目の野球部に入部、第1回早慶戦の先発に抜擢された。この試合は9-11で敗れるが、その後エースとして活躍、「日本一」に貢献。 1905年(明治38年)、野球部長の安部磯雄は日本一の褒美として、大隈重信学長に史上初のアメリカ遠征を願い出た。片道の渡航費5500円を借り受け、米国西海岸を転戦。各地の大学や軍隊のチームと26試合を行い、7勝19敗だったが、河野は24試合に登板、現地で「Iron Kouno(鉄人河野)」と呼ばれた。この時、河野の人気に目をつけたタコマ・タイガース(パシフィックコーストリーグ所属、現在はAAA)というプロチームから、臨時に試合出場しないかと打診されているが、これは安部が断っている。また、この遠征で、日本で初めてワインドアップ投法や緩急をつけた投球を習得したといわれる。ちなみに、竹久夢二はこの河野のワインドアップ投法に強く魅せられ、絵はがきや挿絵に何枚も河野の姿を描いているほか、処女画集である『夢二画集 春の巻』の前書きにも河野のことを記している。 卒業後は、友人の経営する呉服店で勤務したほか、横浜商業、早稲田大学等で簿記の講師を務めている。また、この時早稲田野球部の監督(専任ではないので、正式記録には監督として記録されていない)も務めた。 1911年(明治44年)、『東京朝日新聞』が展開した野球害毒論キャンペーンの一つとして、『東京朝日新聞』9月5日号に、「旧選手の懺悔」(名倉聞一)と題し、河野が野球の害毒を懺悔する談話が掲載された。河野は捏造であると抗議したが無視され、『東京日日新聞』9月8日号に反論を投稿した。『東京朝日新聞』は、9月10日号にようやく河野の反論を掲載した。さらに、野球害毒論の「野球をやると利き手が異常に発達するので有害」という主張に、9月17日、読売新聞社主催の「野球問題演説会」に出席し、自らの両手を挙げて反論した。 1917年(大正6年)の早稲田騒動では天野為之派の闘士として活躍、9月11日深夜に起きた革新団校門占拠事件にも加わった。しかし天野派は敗北し、河野も早大を追われることになった。
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