早稲田で頭角を現すとは? わかりやすく解説

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早稲田で頭角を現す

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 00:13 UTC 版)

大沢慶己」の記事における「早稲田で頭角を現す」の解説

1943年4月早稲田大学入学し柔道部入部すると、師範には三船久蔵徳三宝らが顔を揃え、月に1度ほどではあったが指導来てその薫陶受けた。このほか早稲田大学時代印象残った人物として大沢小内刈名人山本秀雄の名を挙げている。入部早々第4回柔道早慶戦には先鋒として出場活躍する機会得て、翌44年2月講道館月次試合ではまたも12抜きという快挙達成同年9月には三段位に列せられた。大学在学中主将務め学校で2時間部活動の後に講道館通って更に2時間稽古し、その移動手段ランニングという事もあったという。日々4時間という稽古時間現在の大学柔道部比べてもかなり長くいわゆる“猛稽古”の部類に入るが、大沢は「当時はそれが普通だった」と謙遜する一方で太平洋戦争のために1945年6月陸軍歩兵第57連隊佐倉連隊)に入隊千葉県館山市防衛の任に当たったが、着任して2ヵ月後には終戦迎えた1946年3月大学卒業後は、1947年11月第1回稲門三田対抗戦出場して水谷英男と引き分けたほか、1948年3月都下近県選手権大会四段の部で出場して夏井昇吉成毛秀臣らを降し優勝同年5月講道館春季紅白試合では後々までライバルとなる醍醐敏郎四段敗れたものの、10月関東一部六県優勝試合には千葉県副将として出場し決勝戦醍醐破って雪辱果たした。なお、大沢醍醐両者は同じ1926年に同じ千葉県生まれ体格こそ大きく違うが互いにライバル認め合い全日本2度制した醍醐は「俺は大沢負けた」と周囲語り一方大沢も「醍醐さんは本当に強かった」と讃えている。このほか学生時代には、48年10月の全関東九州対抗試合出場し石橋五段を試合開始わずか30秒出足払仕留め翌日十地対抗試合には関東軍大将として出場して同年全日本選手権大会覇者である松本安市大外刈移腰逆襲し鮮やかに破る金星挙げたほか、11月第2回稲門三田対抗戦では小坂肇五段を降した記録残っている。学生時代戦時下占領下過ごしたために多く大会試合には恵まれなかったが、それでも柔道評論家のくろだだけしは、この柔道界の不毛時代奇跡的に育った2人選手として大沢醍醐の名を挙げている。

※この「早稲田で頭角を現す」の解説は、「大沢慶己」の解説の一部です。
「早稲田で頭角を現す」を含む「大沢慶己」の記事については、「大沢慶己」の概要を参照ください。

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