早稲田で頭角を現す
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1943年4月に早稲田大学に入学し柔道部に入部すると、師範には三船久蔵や徳三宝らが顔を揃え、月に1度ほどではあったが指導に来てその薫陶を受けた。このほか早稲田大学時代に印象に残った人物として、大沢は小内刈の名人・山本秀雄の名を挙げている。入部早々の第4回柔道早慶戦には先鋒として出場・活躍する機会を得て、翌44年2月の講道館月次試合ではまたも12人抜きという快挙を達成、同年9月には三段位に列せられた。大学在学中は主将を務め、学校で2時間の部活動の後に講道館へ通って更に2時間稽古し、その移動手段はランニングという事もあったという。日々4時間という稽古時間は現在の大学柔道部と比べてもかなり長く、いわゆる“猛稽古”の部類に入るが、大沢は「当時はそれが普通だった」と謙遜する。一方で、太平洋戦争のために1945年6月に陸軍歩兵第57連隊(佐倉連隊)に入隊。千葉県の館山市で防衛の任に当たったが、着任して2ヵ月後には終戦を迎えた。 1946年3月に大学を卒業後は、1947年11月の第1回稲門三田対抗戦に出場して水谷英男と引き分けたほか、1948年3月の都下近県選手権大会に四段の部で出場して夏井昇吉や成毛秀臣らを降し優勝。同年5月の講道館春季紅白試合では後々までライバルとなる醍醐敏郎四段に敗れたものの、10月の関東一部六県優勝試合には千葉県の副将として出場し、決勝戦で醍醐を破って雪辱を果たした。なお、大沢・醍醐の両者は同じ1926年に同じ千葉県で生まれ、体格こそ大きく違うが互いにライバルと認め合い、全日本を2度制した醍醐は「俺は大沢に負けた」と周囲に語り、一方の大沢も「醍醐さんは本当に強かった」と讃えている。このほか学生時代には、48年10月の全関東全九州対抗試合に出場し石橋五段を試合開始わずか30秒で出足払に仕留め、翌日の十地区対抗試合には関東軍大将として出場して同年の全日本選手権大会覇者である松本安市の大外刈を移腰で逆襲し鮮やかに破る金星を挙げたほか、11月の第2回稲門三田対抗戦では小坂肇五段を降した記録が残っている。学生時代を戦時下・占領下に過ごしたために多くの大会や試合には恵まれなかったが、それでも柔道評論家のくろだだけしは、この柔道界の不毛時代に奇跡的に育った2人の選手として大沢・醍醐の名を挙げている。
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