早稲田という土地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 15:55 UTC 版)
「東京専門学校 (旧制)」の記事における「早稲田という土地」の解説
開校に先立ち、東京府下早稲田(当時は南豊島郡下戸塚村内、現新宿区)に所在していた大隈の別荘に隣接して校舎が建設された。早稲田の校地は、大隈重信が1882年(明治15年)3月に相良剛造(大隈の甥)と山本治郎兵衛の両人から買い取った土地の一部を借用する形で始まった。 1890年頃の東京専門学校 東京専門学校開校の当時は、校門の前は満目水田で、界隈の畑地はみな茗荷畑であつた。此の地の附近には種々の古蹟があつて、芭蕉庵もあれば道灌の山吹の里もあり、堀部安兵衛の復仇の遺蹟もあり、杜鵑を聞く風流地とも云はれたが、早稲田と云ふ地名は、一向に知られず、僅か須田町の青物市場が茗荷の為に知つた位に過ぎなかつた。 — 市島謙吉、『回顧録』 中央公論社、259頁 「早稲田大学」と改称した後も周辺の田園風景はしばらく残存していたようで、石橋湛山(明治36年入学)も当時の情景を次のように回想している。 そのころの早稲田大学の周辺は、どんな状況であったかというに、すでに鶴巻町通りは、古本屋、ミルクホール、その他の商店が軒を並べて、新たな大学街として繁栄していた。しかしその鶴巻町も、大学の方から向かって左側は、ちょっと裏にはいると、いわゆる早稲田たんぼで、目白台まで水田が続き、その中に新たにできた道路に沿って、点々と下宿屋などが建っているのに過ぎなかった。昔早稲田は茗荷畑が多いことで有名だったそうだが、その名残りも明治三十六年ごろにはまだ見られた。 — 石橋湛山、『湛山回想』 岩波文庫、50頁 早稲田新市街(明治末期) 諏訪森の合宿所を後にする早大野球部員(明治43年10月) なお、江戸時代には現在の早稲田キャンパスの大部分が天台宗宝泉寺の寺領であったと伝えられている。また9号館のあたりには、1963年(昭和38年)まで移転前の水稲荷神社(高田稲荷)が所在していた。
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