早稲田と金メダル
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1925年(大正14年)、奨学金を得て第一早稲田高等学院(現早稲田大学高等学院)へ進学、早稲田大学競走部に所属する。同郷で後に"日本レスリング界の父"と呼ばれる八田一朗は同学校の一学年下、同じく同郷で後に日本水泳連盟会長となる藤田明も後輩にあたる。競走部には広島一中の先輩で親友であった沖田(1923年入部)、そして南部忠平(1924年入部)がおり、特に南部とは以降70余年に及ぶ終生の親友となり兄弟よりも仲がいいと言われお互い切磋琢磨し大きな業績を残した。五輪に日本代表として出た経験を持つ織田だったが、競走部では1年から雑用をやったことを回想している。在学中、走幅跳および三段跳で日本記録を更新しただけでなく、第7回極東選手権競技大会予選会では十種競技で、第13回日本陸上競技選手権大会では400mリレー(山口直三・大沢重憲・織田・南部)で日本新を記録している。 1928年(昭和3年)、沖田の後を追う形で早稲田大学商学部に進学する。引き続き早大競走部に在籍、沖田・南部らと競走部黄金期の立役者となり、早稲田スポーツの先駆者となった。自身の活躍と共に陸上のコーチはいない時代のため、中島亥太郎や織田を慕って入部してきた西田修平ら後輩を指導した。当時早大競走部部長であり同年に発足した日本学生陸上競技連合初代会長で、後に1940年幻の東京オリンピック招致に動いた山本忠興は、織田を通じて陸上競技の知識を習得した。 同1928年、アムステルダムオリンピックに出場、五輪日本選手団には早大競走部から織田の他、沖田・南部・大沢・山口・住吉耕作・木村一夫・井沼清七が選ばれていた。7月28日に行われた走高跳では1m88で8位に終わる。8月2日、三段跳が行われ、予選で15m21を記録しトップで決勝へ進み、結局この記録が残り日本人初の金メダルを獲得する。この表彰式で有名な出来事があり、詳細は下記#逸話参照。なお、この五輪での金メダルは織田と競泳男子200m平泳ぎの鶴田義行の2人だけであり、織田のメダル獲得の6日後に鶴田が獲得している。この時の祝勝会は国や早稲田大からは開いてもらえず、故郷の海田市町が祝ってくれたと回想している。 1929年(昭和4年)、早大競走部主将となる。以降も一線級の陸上競技者として活躍した。
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