井沼清七
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/26 23:49 UTC 版)
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選手情報 | ||||
ラテン文字 | Seishichi Inuma | |||
国籍 | ![]() |
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競技 | トラック競技 (短距離走) | |||
種目 | 100m, 200m, 4×100mリレー | |||
大学 | 早稲田大学 | |||
生年月日 | 1907年7月27日 | |||
出身地 | 青森県北津軽郡中里村 (現・中泊町) |
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没年月日 | 1973年10月1日 | |||
身長 | 165.6cm(1933年)[1] | |||
体重 | 61kg(1933年)[1] | |||
オリンピック | 4×100mリレー 予選3組3着 (1928年) | |||
自己ベスト | ||||
100m | 10秒7(1932年)[注釈 1] | |||
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井沼 清七(いぬま せいしち、1907年7月27日 - 1973年10月1日[4])は、日本の男子陸上競技(短距離走)選手。青森県出身。早稲田大学在学中、1928年アムステルダムオリンピックに4×100メートル (m)リレーで出場した。青森県初のオリンピック選手である[5]。
経歴
1907年、青森県北津軽郡中里村(現・中泊町)において[4][3]、井沼覚五郎の四男として生まれる[6]。井沼家は大地主で[6]、覚五郎は村政にたずさわり、郡会議員も務めた人物である[7][8]。兄の井沼豊助は実業家(津軽鉄道取締役、津軽酒造会社社長など)として活動し、第2代中里町長を務めるとともに[8]、青年相撲の振興にあたり、県相撲連盟幹部を務めた[8]。
中里尋常小学校高等科(現・中泊町立中里小学校)卒業後、青森県立弘前中学校(現・青森県立弘前高等学校)に進む[4]。小学校の頃より運動会では常に一着であったというが[5]、中学校で陸上部に入り[4]、スプリンターとして頭角を現した[5]。1926年に第一早稲田高等学院に進学[4]。早稲田大学競走部では山本忠興の指導を受け、短距離走や4×100mリレーの選手として活動する[3]。特に、織田幹雄・南部忠平・大沢重憲らとチームを組んだリレーでは、複数回日本記録を更新している[9][10]。
早稲田大学商学部[11]在学中の1928年、アムステルダムオリンピックに、4×100mリレーの日本代表選手として参加。大沢・南部・相沢巌夫とともに4×100mリレーに出場したが、予選3位(43秒6)[注釈 2]で決勝には進めなかった[12]。井沼によれば、直前にオーダーを決定するチーム急造の状況となり[注釈 3]、バトンの接合がうまくいかなかったという[3]。なお、同メンバーで第2回国際学生大会(パリ) (1928 Summer Student World Championships) に参加し、43秒2の日本記録で2位の成績を残している[3][注釈 4]。
1931年に弘前市で開催された「第7回ス・ノ・ゴ三巴戦」(青森師範・青森中学・弘前中学3校の陸上競技クラブチーム対抗戦[注釈 5])に弘前中学OBとして参加、100m走で10秒9の記録を残した[14][5][注釈 6]。1931年の神宮大会(学生対一般対抗陸上競技大会)[注釈 7]では、学生代表として4×100メートルリレーに参加(走者は井沼・佐々木吉蔵・阿武巌夫・吉岡隆徳)、41秒6の日本記録を出した[1][10]。
大学卒業後は松坂屋に入社[1]。実業界でも足跡を残し、松坂屋常務取締役[4][3][11]・松栄食品社長を務めた[3]。陸上競技については指導者として、日本陸上競技連盟常務理事や評議員、東京陸上競技協会副会長に就任した[3]。
故郷である青森県への国民体育大会の誘致(1977年にあすなろ国体として実現)には、日本体育協会関係者との幅広い交友があることから積極的なバックアップを惜しまなかったが[18]、1973年10月1日に死去した[4][18]。66歳没[18]。
競技スタイル
低い姿勢からのスタートダッシュを得意とした[14]。「暁の超特急と称された吉岡隆徳さえも、序盤50メートルまでは井沼に及ばなかった」と語られる[3][14]。
受章等
記念
出身地の中泊町では、1991年から「井沼清七杯リレーカーニバル」が開催されている[4][6]。
また、中泊町運動公園にはスタートダッシュの姿を表現した井沼の銅像が1995年に建立された[19][6][14]。銅像は弘前出身の彫刻家・古川武治によるものであり、台座には織田幹雄自筆「より速く より高く より強く」の銘板がはめ込まれている[14]。
脚注
注釈
- ^ Olympediaでは1932年の10秒7が生涯ベスト記録であるとする[2]が詳細不明。中泊町博物館は1931年のス・ノ・ゴ三巴戦で出した10秒9が青森県記録であったことを記す[3]。
- ^ 着順4位であったが、着順2位のハンガリーが反則により失格[3]。
- ^ 早大の山口直三が補欠となり[13]、京都帝大の相沢が走った。
- ^ 『新編弘前市史』では1928年のアムステルダムオリンピック(第9回オリンピック)に関する記載に続いて「その年に開催された第九回極東オリンピックの百メートルで優勝する」とあるが[5]、第9回極東選手権競技大会は1930年の開催である[3]。『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』には「第九回オリムピック大会には四百米リレーに日本代表として参加、百米十秒六の記録を獲得す」との記述がある[1]。
- ^ 「ス・ノ・ゴ」は、1925年に3校それぞれで編成された、OBに在校生を加えた陸上のクラブチーム、「スパルタ」(青森中学)、「ノーマル」(青森師範)、「ゴルゴン」(弘前中学)の頭字である[14][5]。三巴戦は1926年に第1回の大会が開かれ[15]、1941年まで続けられた[16]。
- ^ これは青森県記録として1975年まで破られなかった[5]。
- ^ 『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』では「神宮大会」での記録とし、日本学生陸上競技連盟は神宮競技場で開催された「学生対一般」大会での記録とする[10]。明治神宮体育大会は水泳・球技・武道なども含めた総合スポーツ大会であり、その初日に学生対一般の対抗陸上競技大会が開催された[17]。
出典
- ^ a b c d e 日本スポーツ協会 1933, p. イの部10.
- ^ “Seishichi Inuma”. Olympedia. 2025年9月19日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n “井沼清七”. 中泊町博物館. 2025年9月19日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “西北津軽陸上競技協会”. 2009年5月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年9月2日閲覧。
- ^ a b c d e f g “第九回夏季オリンピック・アムステルダム大会出場・井沼清七”. 新編弘前市史 通史編5(近・現代2). 2025年9月19日閲覧。
- ^ a b c d 『中泊偉人伝人ものがたり』, p. 32.
- ^ “近代化の推進”. 中泊町博物館. 2025年9月19日閲覧。
- ^ a b c “スポーツ大国の群像”. 中泊町博物館. 2025年9月19日閲覧。
- ^ “早稲田がつくった日本記録”. 早稲田大学競走部. 2025年9月19日閲覧。
- ^ a b c “日本学生記録の変遷 男子4×100mR”. 日本学生陸上競技連合. 2025年9月23日閲覧。
- ^ a b “第一編>第五章 商学部”. 早稲田大学百年史. 2025年9月19日閲覧。
- ^ Athletics at the 1928 Amsterdam Summer Games:Men's 4 × 100 metres Relay Round One[リンク切れ]Archived 2020年4月17日, at the Wayback Machine.
- ^ 藤瀬武彦 2022, p. 151.
- ^ a b c d e f 「関名選手輩出の中泊町=133」『津軽の街と風景』陸奥新報、2020年5月18日。2025年9月19日閲覧。
- ^ 一戸哲雄 1977, p. 91.
- ^ 一戸哲雄 1977, p. 92.
- ^ 入江克己、鹿島修「天皇制と明治神宮体育大会(第2報)」『鳥取大学教育学部研究報告 教育科学』第32巻第1号、1990年、19頁。
- ^ a b c 一戸哲雄 1977, p. 93.
- ^ 「関取2人活躍中 米作が生んだ粘り腰」『地域のチカラ』日刊スポーツ、青森県中泊町、2015年5月15日。
参考文献
- 一戸哲雄「人物を中心とした体育・スポーツ郷土史 連載第11回 青森県」『文部時報』第1202号、1977年7月。
- 人物を中心とした体育・スポーツ郷土史(文化庁ウェブサイト、連載を合綴)
- 『中泊偉人伝人ものがたり』中泊町博物館、2016年 。2025年9月19日閲覧。
- 藤瀬武彦「スポーツ文化財としてのオリンピック関連資料の収集について 第四報 ─1928年第9回アムステルダムオリンピックに関する収集品─」『新潟国際情報大学国際学部紀要』第7巻、147-156頁、2022年 。
- 日本スポーツ協会 編『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』日本スポーツ協会、1933年 。※ただし、「井沼清吉」と誤記。
関連項目
外部リンク
- Seishichi Inuma[リンク切れ]Archived 2020年4月17日, at the Wayback Machine.
- 井沼清七のページへのリンク