戦後の弁護活動
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終戦後1946年、名古屋控訴院(のち名古屋高等裁判所)検事長に赴任するも、GHQにより戦前の治安維持法改定の関与や戦時中の受刑者による「囚人造船部隊」など戦時関連の行動を咎められ、池田克とともに司法省としては数少ない公職追放により退官。公職追放解除後池田が最高裁判事に復帰したが、正木は監獄行政、社会政策に関する講演、執筆活動をしながら、弁護士としても帝銀事件、バー・メッカ殺人事件などの戦後の大きな刑事事件の主任弁護を担当した。また、誰に対しても区別なく接するそのヒューマニズムに惹かれ、交友関係は法曹界に限らず、文人、政治家など多彩であった。特に、田中角栄と小佐野賢治の顧問弁護士であった関係で、二人を引き合わせた人物として、正木の死後、ロッキード事件でその名前が取り上げられた。
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