学区の成立の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 02:19 UTC 版)
学区(元学区)は、明治時代の番組制度から派生している京都の住民自治組織。文化・文政年間の「町代改義一件」の後、上京・下京に置かれた上下京三役・町組・町の自治体制を基本としている。 この江戸時代の町組を、明治維新後に京都府が番組として上京・下京それぞれ33組に組み換えた。上京(下京)○番組または上大組(下大組)○番組のように呼ばれた。町組では、それぞれの町がどの組に属しても良かったが、この組み換えにより地理的なまとまりを持つようになった。番組は、地域行政や警察・消防機能を持ち、1868年(明治元年)に町会所に併設する形で小学校の設立が決定された。この番組から、1869年(明治2年)に64の番組小学校が設立された。この町組改正を経て、上・下京の総代を大年寄、各組は中年寄・添年寄、各町は町年寄と呼ぶことになった。 1871年(明治4年)に制定された戸籍法は、戸籍を扱う単位としての地方行政組織「戸籍区」を設置し、戸籍区にはそれぞれ戸長を置くことを定めた。京都では、1872年(明治5年)に戸籍制度を導入するにあたり、町を単位として各町に戸長を置いた。このとき「番組」は「区」(上京(下京)○区)に改められ、その区には中年寄・添年寄を改め区長・副区長、上京・下京にはそれぞれ大年寄を改め総区長が置かれることになった。この頃行われた地租改正により、全国の土地に地番が振られたが、京都市の中心部では区ごとの付番となった。 1874年(明治7年)には、戸長の管轄範囲が200戸と見直されたのにともない、いくつかの町をまとめて1人の戸長を置くように改められた。それによって町の代表者は町総代と呼ばれるようになるが、その設置はあくまで町の任意によるものだった。 1879年(明治12年)に郡区町村編制法が制定されると、区を組(上京(下京)○組)と改称し、各組ごとに戸長を置くことになった。また同年から戸長役場が設置されたが、京都では小学校に戸長役場を併設し、組が行政と教育の両方の単位となる体制が取られることになった。(なお、このとき上京区・下京区の両区役所が設置されている。)戸長役場の設置に伴い、役場の運営等の行政経費について、組内の町の代表者による連合町会が設置され、審議されるようになった。 しかし、1886年(明治19年)11月には各組に置かれていた戸長役場は、上京区・下京区それぞれ10ずつに統合され、1889年(明治22年)には市制施行とともに全廃され、行政機能は区役所にまとめられることになった。こうして、上京・下京区に置かれた区役所が、直接住民と接することになったが、区役所の管轄範囲は広く、ますます地域行政は町総代に依存することになった。 一方、多くの公務は府や市が行い、予算は府会、市会の審議事項となるなか、各組(連合町会)に残されたのは尋常小学校に関する教育費の決定権のみとなった。1892年(明治25年)7月に「区会条例」が公布される。この区会は小学校の学区単位で設置されたものであり、「学区会」とも呼ばれた。学区会では、学区の財政の意志決定が行われた。学区の運営は、学区有財産を基本に、学区内から学区税も財源とした。また、校舎建て替えなどにおいては、起債も認められた。このように学校運営に特化することになった連合町会は、学区会へと改組され、区会条例に基づき運営されることになった。 このとき、「組」は「学区」(上京(下京)第○学区)となった。小学校名は当初番組の番号がそのまま付けられていたが、やがて固有の名を持つようになった。名称は、論語にちなんだ「立誠」、豊臣秀吉の「梅屋」など、中国の古典や地域の歴史に基づくものが多いのが特徴である。1929年(昭和4年)には学区を「成逸学区」のように学校名で呼ぶようになった。 1897年(明治30年)、京都市会は公同組合の設置を奨励することとした。町を単位として公同組合を設置し、各学区には各公同組合の代表者である公同組長により構成される連合公同組合が置かれた。公同組合は、これまで町や学区が任意で行ってきたものについて公的な位置づけを明確に付与したということができた。 一方、学区により教育費を負担する制度は、学区間での経済的な豊かさによって、教育施設の充実等の面で差を生じることになり、その廃止を求める声が出てくることになる。これは周辺地域の合併の時にも問題となったが、学区という単位が公同組合など地域活動の単位となっていることもあり、市は教員給与を市から統一して支弁することや、学区への補助金制度などによって地域格差を是正しつつ学区を廃止せず残置した。 戦時色が深まるにつれ、公同組合連合会などが戦争遂行のために公同組合の強化を申し合わせるなど、公同組合は戦時体制下の協力を行った。しかし、長年の慣行をもち、徴収する経費の額なども各組合(町)で異なっているなどの性質を持っていた公同組合は、全国画一的な総動員体制をつくろうとする政府の方針とは相容れないものであった。内務省は、1940年(昭和15年)9月11日に内務省は各府県に部落会・町内会の設置を命じた。京都市は11月23日に京都市町内会設置標準を定め、翌年1月15日には全市内で町内会が設置された。これらの町内会が、連合公同組合を改組した町内会連合会のもとに編成された。 また、小学校を運営する「学区」については、1941年(昭和16年)の国民学校令により存立の根拠を失うことになった。京都市では、実質的に翌年4月まで存続させたが、地域が学校を運営する「学区」の歴史はここで終わることになる。なお、この時の学区の地域区分が現在の学区の基になっている。 第二次世界大戦が終わると、いわゆるポツダム政令15号の公布により学区の基盤である町内会自体が廃止されるが、次第に再組織化されていった。戦後、一部の小学校が新制中学校に転用され、さらに人口の増減による小学校の新設や統廃合により、学区と小学校の通学区域は一致しなくなった。 学区(元学区)は行政上の単位ではなく、行政とのつながりはないが、市政協力員などの形で、国勢調査や市民新聞配布、回覧板などといった行政からの伝達もこの順で行なわれることが多い。なお国勢調査の統計区は学区(元学区)に基づいて設置されたが、人口増加にともなって分割された地域もあり、現在では必ずしも一致しない。 なお、現在において、地域行政・住民自治の単位として学区というときに、戦後人口増加が著しく、小学校が新設された地域においては、新設された小学校区を新たな「学区(元学区)」の単位として扱う場合がある。ただし、この場合でも市中心部では戦後の小学校統廃合以前の学区が「学区(元学区)」の単位である。 毎年10月頃になると、区民体育祭や区民運動会などを町中で目にするが、ここでいう区とは学区(元学区)のことである。学区民による運動会は、学区(元学区)ごとに行われ、多くの学区では町内会対抗の形式を取っている。このことからも、学区における町内会の重要性がうかがえる。また、時代祭を運営する平安講社は各学区にあり、現在でも時代祭は各学区が交代に維持・運営等を行っている。
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