就学期
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1921年(大正10年)4月8日、高知県立第一中学校(翌年「高知県立高知城東中学校」と改称, 現校名・高知県立高知追手前高等学校)に入学。乗馬と柔道に秀で、平素より武芸鍛錬を怠らず、1926年(大正15年)3月1日、同校に於て配属将校の行う教練の検定に合格。1926年(大正15年)3月16日、同校を卒業。のちに自治大臣、厚生大臣を務めた塩見俊二は、同期生にあたる。 1927年(昭和2年)4月10日、東京・日本ルーテル神学専門学校へ入学。3年先輩には青山四郎らがいた。徴兵検査甲種号格。この時の計測身長は183cmであった。 1928年(昭和3年)12月、栃木県日光町に「板垣退助伯爵彰徳会」が設立され、名誉会長に藤山竹一栃木県知事、会長は日光町長、評議員に輪王寺門跡、日光東照宮宮司、二荒山神社宮司、日光町助役、日光精銅所長ら16名が名を連ねた。翌1929年(昭和4年)12月8日、銅像除幕式を迎え、開会の辞は建設会長・今井徳順、工事ならびに会計報告・金子智、銅像製作報告・本山白雲、式辞は望月圭介(旧自由党員代表)が述べ、従兄の板垣正貫が除幕を行い、宮地茂秋が家族代表謝辞を行った。この時の祝辞は、浜口雄幸総理大臣代理をはじめ、板垣退助門人代表として頭山満、また犬養毅、原田維織栃木県知事、民政党支部長、政友会支部長、日光町長などで、式後山内の休憩所に於いて直会が開かれた。銅像の題字は、徳川嫡流宗家・徳川家達が揮毫を行った。 1932年(昭和7年)3月18日、同校(予科二年・本科三年)卒業。学生時代、母の実家である長野県の高野家を訪ねる際、父の助言に基づき上田原の板垣信方の墓に参り、川中島の古戦場、武田氏ゆかりの旧跡を巡って帰省。
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