参議院議員として
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静岡地区労書記から日本社会党静岡県本部に入り、26年にわたって党活動に従事した後、1989年の第15回参議院議員通常選挙で静岡選挙区から日本社会党公認候補として立候補した。新幹線停車事件(後述)により選挙期間中に公認が取り消され、自身も選挙運動を自粛したが、結果は無所属での当選となった。 当選後、共同会派「社会党・護憲共同」入りを経て、日本社会党へ復党した。参議院では、運輸委員会の理事などを務めた。また、参議院の産業・資源エネルギーに関する調査会では、浜本万三の後任として1993年に会長に就任し、翌年まで務めた。1995年の第17回参議院議員通常選挙では落選した。
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参議院議員として
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2001年、第19回参議院議員通常選挙に自由党公認で比例区から出馬し、参院で初当選する。2003年の民由合併により、民主党に入党。小沢グループに属する。 北朝鮮による拉致問題等に関する特別委員会委員長在任中、北朝鮮人権法案の成立に尽力。2006年に同法案は第164回国会で成立したが、この法案の第6条2項に盛り込まれた、日本政府が脱北者の保護及び支援に関し、施策を講ずるよう努める旨の記述が後に問題視された。 2007年7月の第21回参議院議員通常選挙に民主党公認で比例区から出馬するが、次々点で落選。同年12月、山本孝史参議院議員が議員在職のまま癌で死去したため次点の大石尚子が繰り上げ当選したあと、2009年8月、青木愛参議院議員が第45回衆議院議員総選挙に出馬して自動失職したそれをうけ、繰り上げ当選により国政復帰を果たした。 2009年10月、小沢一郎幹事長のもとで民主党副幹事長に就任。 2011年9月、民主党広報委員長に就任。 2012年2月9日、民主党が消費増税に向けた全国キャンペーンを開始するにあたり、消費増税方針に反対して広報委員長を辞任。7月2日には民主党に離党届を提出し、7月3日に受理された。それにともない、党富山県総支部連合会の代表も辞職した。しかし、前任の県連代表である村井宗明も社会保障・税一体改革関連法案の採決で造反するなど状況が混乱していたことから、代表を当面空席とする措置が採られた。 2012年7月11日の国民の生活が第一の結党に参加した。党副代表兼参議院議員会長に就任。 同年11月27日、滋賀県知事の嘉田由紀子が卒原発を旗印に結成した「日本未来の党」に生活が合流を表明したことを受け、翌28日に総務省へ提出した政党設立届出に所属議員として名を連ねた。12月1日、党幹事(広報担当)に就任。 その後、2012年末の日本未来の党の分党を受けて、事実上の継承政党となった生活の党に所属。両院議員総会長に就任。また、2013年1月に発足した同党の富山県総支部連合会では、代表に就任した。 2013年の第23回参議院議員通常選挙で落選したが、その選挙の際、広野の運動員に法定限度額を超える報酬を支払ったとして、当時の公設第一秘書ら2名が9月4日、公職選挙法違反(買収)の容疑で、富山県警に逮捕された。2014年3月14日、公選法違反で公設秘書の有罪が確定した広野に連座制を適用するよう東京高検が求めた訴訟の判決で、東京高裁は、適用を認め、参院選比例代表での5年間の立候補禁止を命じた。
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参議院議員として
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1995年に自由民主党公認で第17回参議院議員通常選挙に出馬し初当選した。その後も第19回参議院議員通常選挙、第21回参議院議員通常選挙と当選した。 2013年の第23回参議院議員通常選挙には出馬せず引退。後継は滝波宏文。同年秋の叙勲で旭日重光章受章。
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参議院議員として
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2007年7月29日執行の第21回参議院議員通常選挙に埼玉県選挙区から民主党公認で出馬。埼玉県に地縁のない新人候補ながら、自由民主党新人の古川俊治、民主党現職の山根隆治の得票数を上回る745,517票を獲得してトップ当選を果たし、定数3の埼玉県選挙区の2議席を民主党が獲得する結果になった。2009年の民主党代表選挙では、鳩山由紀夫幹事長の推薦人に名を連ねる。 2010年9月の民主党代表選挙の際は、小沢一郎を支持。当時の様子を「この間、多くの国民の皆様から激しい罵声や反論を許さない厳しい批判の声や、普通であれば立ち直ることができないような辛辣な言葉を頂いた。」と自ら述べている。 2010年9月、岡田克也幹事長の下、民主党副幹事長に就任。2011年、輿石東幹事長の下でも副幹事長に再任された。また外国人による土地取得に関するプロジェクトチーム事務局長、公務員宿舎のあり方に関するワーキングチーム副座長を務める。2012年、参議院会派「民主党・新緑風会」幹事長代理に就任。また行革調査会筆頭事務局次長、森林・林業調査会事務局次長、地方自治体臨時・非常勤職員問題ワーキングチーム座長を務める。 2012年7月17日、民主党に離党届を提出(7月24日付で受理)。同様に民主党を離党した舟山康江、谷岡郁子及び国民新党を離党した亀井亜紀子、行田の4人は「原発ゼロ社会」「反TPP」「本当の意味での一体改革」「国会改革」等を掲げる新会派「みどりの風」を設立した。舟山、谷岡、亀井、行田の4人による共同代表制。共同代表、国会対策担当に就任。 同年12月26日、第182回国会における内閣総理大臣指名選挙において、行田はみんなの党以外の議員で唯一、渡辺喜美に投票した。 2013年1月18日、みどりの風が政党要件を回復して共同代表制から単独代表制へ移行したため同党代表代行に就任。 2013年2月21日、渡辺喜美から次期参議院議員通常選挙にみんなの党公認で埼玉県選挙区から出馬するよう要請を受ける。これに応じる形で同年3月13日、みどりの風を離党し、みんなの党に入党。 同年7月21日執行の第23回参議院議員通常選挙にみんなの党公認で埼玉県選挙区から出馬し、2期目の当選。同年8月、みんなの党初代女性局長に就任。 2014年11月28日、みんなの党が解党し、無所属となる。解党後、みんなの党出身者の一部が参議院の新会派「日本を元気にする会」を立ち上げるとこれに参加。2015年1月に政党としての日本を元気にする会の設立には加わらなかったが、参議院会派「日本を元気にする会・無所属会」に政党に属さない無所属議員として所属した。 2015年1月20日、政治団体「未来の埼玉を創る会」を設立した。行田はこの団体について「埼玉県内のみんなの党OB会のようなもの」と述べ、会員相互の情報交換や勉強会、地方選挙の相互支援を行うとしている。また、「会としてほかの政治団体や政党と連携することもないが、会に参加する個人個人が政党や政治団体に所属することも自由」としている。2015年2月に設立された超党派「政治分野におる女性の参画と活躍を推進する議員連盟」では事務局長を務め、「政治分野における男女共同参画推進法」の作成に携わった。 同年11月13日、埼玉県選挙管理委員会に政治団体「みんなの党」の設立を届け出た。行田が代表を務め、国政政党としての復帰を目指し当面は一人で活動するとしており、この届け出に関して行田は渡辺喜美元代表から了承を得たと発表した。しかしわずか1か月後の12月10日に行田がみんなの党復活を断念したことを発表した。 2016年1月6日に日本を元気にする会が参議院で維新の党との統一会派「維新・元気の会」を結成した際に、会派を離脱し、同年7月の第24回参議院議員通常選挙後に参議院院内会派無所属クラブに入会した。 2017年9月25日、東京都知事の小池百合子は会見で、自身が代表を務める「希望の党」の結党を発表。同日、東京都選挙管理委員会を通じて総務大臣に設立を届け出た。届出には行田を含む国会議員9人が名を連ねた。 2018年5月7日、希望の党が国民党と分党(国民党は翌8日民進党と合流し国民民主党となる)。行田は新たに結党された希望の党に参加し幹事長に就任した。
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参議院議員として
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1994年、第16回参議院議員選挙で当選した新間正次が、経歴詐称による当選無効となったため補欠選挙が実施されることになり、末広は生活者密着を売りに立候補を表明。これに伴い、長寿番組となっていた『あなたの土曜日 真季子とともに』も打ち切りとなった。補欠選挙では都築譲に敗れて落選。この直後から末広は愛知万博に対し、反対を明言する。 1995年7月の第17回参議院議員選挙愛知県選挙区で、“無党派”と“「海上の森(かいしょのもり)」の自然を破壊する愛知万博反対”を掲げて再度立候補し、得票数3位で初当選する。 しかし、1993年に行われた第40回衆議院議員総選挙で野党に転落した後、自社さ連立政権という形で再び与党となっていた自由民主党が、議席増大を狙い無所属議員の取り込みを展開する。無所属であった末広も誘いを受け、1997年末に前言を翻す形で愛知万博を推進する立場である自民党に入党する。記者会見で末広は「私には後援会という組織はない。全部、私一人が36万票いただいたわけですから。どこへ持っていくかは私が決めること」「自分の力で環境保護の万博に出来るなら、むしろ推進すべき」と述べた。 これに対し、元支援者や万博反対派は「公約違反の末広まきこを辞めさせる会」を結成し、辞職を求めて署名活動を行った(元支援者の誰一人として、自民党への入党は事前に相談されなかったという)。選挙当時の後援会長らは1998年6月に「公約違反の変節で、精神的苦痛を受けた」として名古屋地裁に提訴したが、2000年8月に棄却されている(2001年1月、名古屋高裁で控訴棄却)。「海上の森」には万博反対派によって買い取られた木があり、末広もその一本を買い自分の名札を付けた。末広は自民党に入党すると取り外したが、これがかえって注目を集めてしまい、「末広まき子が名札をはずした木」と書かれることになった。なお、末広は「海上の森での万博に反対したのであって、公約違反はしていない」と後々まで反論、さらには「公約通り自然との共生を実現しました」「海上の森も残しました」と、万博会場の変更に自らが尽力したともとれるコメントを残している。万博のメイン会場が「海上の森」から愛知青少年公園(現:愛・地球博記念公園)に変更されたのは、末広の自民党入党より2年以上後の2000年9月であるが、その決定に末広が積極的に働きかけた形跡は見ることはできない。 入党後は参院の実力者・村上正邦が初代会長を務めた派閥・志帥会に所属したが、2001年5月に当時人気のあった党総裁・小泉純一郎(首相)が参院選候補者の派閥離脱を打ち出すと真っ先に呼応して同会を離脱し、「無派閥」を強調。地元の反対などから比例区に転出した同年7月の参院選では、“田中眞紀子と同じ「まきこ」「浪速のまきこ」”と連呼したものの落選。
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