参議院議員へ
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1953年(昭和28年)の第3回参議院議員通常選挙に東京地方区から立候補し当選。4期目を目指した1971年(昭和46年)の第9回参議院議員通常選挙で落選するが、1974年(昭和49年)の第10回参議院議員通常選挙で全国区から立候補、当選して通算5期25年務めた。組織に頼らず個人的な支援者が手弁当で選挙運動を行う選挙スタイルを生涯変えず、「理想選挙」とまで言われた。市川は自らの選挙手法を他の候補者にも広めようとしてさまざまな選挙浄化運動に参加した。国会内では政党に属さず、無所属議員の集合体である第二院クラブに所属して活動を行った。1967年(昭和42年)の統一地方選挙では東京都知事選挙で美濃部亮吉を支持。その一方で、石原莞爾を「高潔な人格者」「立派な軍人だと思います」と高く評価したり、1963年(昭和38年)結成の「麻薬追放国土浄化同盟」に加入し、右翼の大物、田中清玄や暴力団・山口組組長の田岡一雄、オールド・ライトの小説家、山岡荘八に協力したりもした。
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参議院議員へ
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2013年2月、広島市議を3期目の任期途中で辞職。同年7月の第23回参議院議員通常選挙に民主党公認で広島県選挙区から出馬。自由民主党の溝手顕正に次ぐ票を獲得し、生活の党現職の佐藤公治、日本維新の会新人の灰岡香奈等を破り、初当選した。衆議院からの鞍替えで当選した野田国義を除き、民主党の新人候補者で唯一の選挙区当選者である。 2016年9月15日の民進党代表選挙では玉木雄一郎の推薦人に名を連ねた。 2017年10月27日、民進党代表の前原誠司が、同月の衆院選で党を分裂させる形で戦う原因をつくったことについて陳謝し、引責辞任を正式に表明。前原の辞任に伴う代表選挙(10月31日実施)では大塚耕平の推薦人に名を連ねた。 2018年5月7日、民進党と希望の党の合流により結党された国民民主党に参加した。 2019年6月23日、国民民主党、立憲民主党、社会民主党、政治団体「新社会党」の広島県組織の代表は広島市に集合。次期参院選に向けて、任意団体「国民主権を取り戻すために結集する広島政党連絡会」(通称名「結集ひろしま」)を政治団体として設立し、森本を統一候補として推薦することで合意した。 同年7月21日に行われた参院選広島県選挙区で自民党は現職の溝手顕正のほか元県議の河井案里を加え2人を擁立した。もとより溝手を追い落とすことを計画に入れていた自民党本部は河井陣営に1億5千万円もの選挙資金を支給。森本は保守分裂選挙の影響を受け、得票数1位で2期目の当選を果たした。亀井静香は森本の応援に駆け付け、無党派層の44%の支持を得ることになった(なお、亀井は河井も支援していた)。これは有権者が多い広島市内では8区中7区でトップだった。溝手は次点で落選した。 詳細は「河井夫妻選挙違反事件」を参照 2020年8月24日、旧立憲民主党と旧国民民主党は、2つの無所属グループを加えた形で合流新党を結成することで合意した。同年9月10日に行われた新「立憲民主党」の代表選挙では泉健太の推薦人に名を連ねた。 2021年10月31日の第49回衆議院議員総選挙で立憲民主党は議席を「109」から「96」に減らし、11月2日、枝野幸男代表は引責辞任を表明。枝野の辞任に伴う代表選挙(11月30日実施)では泉健太の推薦人に名を連ねた。
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参議院議員へ
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1962年、経済企画庁長官だったいとこの藤山愛一郎から電話で、同年の参院選への出馬依頼を受ける。「数カ月で顔と名前を覚えてもらうなんてとても無理な状況で、僕は考えた。あきちゃんほど全国に顔と名前を知られている人は他にはいない」。 藤山は参院選直後に行われる自民党総裁選への出馬を考えており、1人でも多くの子飼いの議員が欲しいという背景があった。しかし参院選立候補はすなわち『私の秘密』のレギュラー降板を意味する。かたくなに断わり続けると、藤山は1960年の自民党総裁選で岸信介に裏切られた事情を喋った。それがきっかけとなり「愛さん、私やってみようかしら。愛さんを総理にするために私の残りの人生を賭けるわ」と伝えたと言われている。同年3月12日、朝刊が「藤原あき参議院選馬か」と報じたため、『私の秘密』の出演はこの日の高知県からの公開生放送が最後となった。3月18日、自民党から参議院選挙全国区のあきの追加公認が正式に発表された。 選挙対策事務長には藤山派の小泉純也衆議院議員が就いたが、藤山は、総裁選のように派閥同士の選挙になってしまっては藤原あきという候補者が生かされないと考えた。政治ズレしていない若手を選対の最前線に立たせることを思い描き、藤山の主催する政治塾「藤山政治大学院」で指導にあたっていた飯島清に「君たちがいままで勉強したものを実地にやってみたらどうかね。結果については私が責任を持つ」と声をかけた。藤山政治大学院の受講生から、平均年齢21歳の若手運動員が選挙スタッフとして抜粋された。事務局長には小林錡衆議院議員の元秘書の原嶋亮二が就いた。小泉純也事務長と娘の小泉信子、飯島、原嶋、日本大学法学部を卒業したばかりの杉浦和彦らが選対の中心メンバーとなった。飯島たちはあきの著書を読み、オシャレの哲学として書いてあった「清く正しく美しく」という一文を見つけ、これを元に「清い政治、明るい社会、美しい国土」というスローガンを作った。選挙事務所は数寄屋橋交差点近くに設置された。 同年7月1日、参院選が実施される。116万票の大量得票でトップ当選し、その後続々登場するタレント議員のはしりとなった。なお、議員としての名前は「中上川アキ」である。当選後、杉浦和彦が公設秘書となり、原嶋と飯島も秘書となった。 1967年8月8日、悪性リンパ腫のため議員任期中に東京医科歯科大学医学部附属病院で死去。69歳没。
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参議院議員へ
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1998年、静岡県議を辞職。第18回参議院議員通常選挙に無所属で静岡県選挙区から立候補し、同区トップ当選を果たした。なおこの選挙で自由民主党は現職の木宮和彦、新人の山下善彦の2名を擁立したが、海野に次ぐ2位で山下が当選し、木宮は3位で落選した。1999年に民主党に入党。2003年、参議院環境委員長に就任。 2004年の第20回参議院議員通常選挙に民主党公認で静岡県選挙区から立候補したが、自民党新人の坂本由紀子、民主党新人の藤本祐司の後塵を拝し、得票数3位で落選した。なお自民党現職の山下も、新人の坂本に敗れている。
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