参議院議員初当選
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 13:55 UTC 版)
2006年(平成18年)秋、参議院議員を務めていた父・吉宏が末期癌の宣告を受ける。安倍晋三首相(当時)の経済政策ブレーンの一人であり、安倍の側近とされ、安倍の政治信条と自身の信条が合致していたことから、自民党の予備選考を通り候補者となる。 2007年(平成19年)7月の第21回参議院議員通常選挙に京都府選挙区から自民党公認で出馬し初当選した。 2008年(平成20年)の自民党総裁選で麻生太郎を支持し、決算委員会では、小沢一郎や鳩山由紀夫の「政治とカネ」問題を追及し、その国会質疑や党執行部に対する発言がメディアに取り上げられる機会も多くなる。 2009年(平成21年)、政権交代後の自民党総裁選で、一年生議員ながら森喜朗から立候補の打診を受ける。各紙でも立候補を画策しているとの報道がなされたが、西田は稲田朋美らとともに平沼赳夫を自民党に復党させ総裁候補にしようと安倍晋三らに働きかけを行なっていた。しかし平沼が固辞したため、同じ京都府選出の谷垣禎一に投票した。政権交代後も予算委員会などで小沢一郎や鳩山由紀夫の「政治とカネ」問題を追及。 2010年(平成22年)4月に発足した政権力委員会(ネクスト・ジャパン)で、治安・法務・政治改革部門の副担当(副大臣相当)に就任。参議院予算委員会理事、参議院財政金融委員会理事、参議院自由民主党国会対策委員会副委員長などを務める[要出典]。 9月の自民党参院議員会長選挙では、町村派所属ながら同派幹部の谷川秀善参議院幹事長ではなく無派閥に転じた中曽根弘文元外務大臣の推薦人に名を連ねる。 2011年(平成23年)から民主党政権への追及を集中的に行う。3月以降、前原誠司・野田佳彦・蓮舫・菅直人らの在日外国人や暴力団関係者との「政治とカネ」問題及び「黒い関係」問題、「市民の党」や「がんばろう、日本!」国民協議会に関する「民主党の闇」問題を追及。民主党のTPPや財政再建の方針に対して明確な態度を示さない党執行部と対立することが多くなる。 同年10月31日の参議院本会議での議員歳費減額法の採決では、復興財源に子ども手当を廃止して充てるべきだとして、衆議院・参議院を通じてただ一人反対票を投じた。 2012年(平成24年)1月30日、YouTubeの公式チャンネルでサイバーテロを受ける。過去に「西田昌司に外国人献金をしましょう」といったメールやツイートが出回ったり、脅迫や在日外国人関係の団体から突然郵送物が届くといった事があった。翌31日、安倍晋三のオフィシャルサイトでも同様の被害を受けていたことが明らかとなった。発信源が国外であったことなどから保守系議員を狙った組織的犯罪である可能性が高いと見られている。 2月19日の参議院本会議での国家公務員給与を平均7.8%削減する法案の採決では、現在の状況での公務員給与引き下げ はデフレ脱却につながらず、そもそもこの給与削減法は民主党と連合が実現を目指している国家公務員の労働協約締結権の導入につながるものとして、自民党でただ一人造反した。実施された自由民主党総裁選挙で安倍晋三総裁の推薦人に名を連ねた。当初は安倍総裁に次回の総裁選まで出馬を見送ることを促していたが、中国の対日強硬姿勢や党執行部の分裂など政局の変化もあり出馬を支持。10月4日に、参議院議員有志32名からなる「新しい日本型社会を考える会」(経済政策担当)を代表して、市場第一主義との決別や自立的な安全保障体制の確立等を主旨とした政策を提言 し、発足の自由民主党シャドウ・キャビネットでは影の財務副大臣に就任[要出典]。 2013年(平成25年)7月の第23回参議院議員通常選挙に京都府選挙区から出馬し、2選する。 2015年(平成27年)8月、北陸新幹線の敦賀以西ルートにおける与党整備新幹線建設推進プロジェクトチーム検討委員会が発足され、10月に第3次安倍第1次改造内閣で復興大臣に就いた高木毅の後任として検討委員会委員長に就任。 2017年(平成29年)3月15日、北陸新幹線の敦賀以西ルートに「小浜・京都ルート」(敦賀駅 - 京都駅間)と「南回り」(京都駅 - 新大阪駅間)を正式決定。検討委員会委員長として学研都市線松井山手駅を中間駅とする「南回り」提案に尽力を注いだ。
※この「参議院議員初当選」の解説は、「西田昌司」の解説の一部です。
「参議院議員初当選」を含む「西田昌司」の記事については、「西田昌司」の概要を参照ください。
参議院議員初当選
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:56 UTC 版)
1993年12月、藤田雄山の広島県知事選挙立候補に伴う参議院広島県選挙区補欠選挙に自由民主党公認で出馬し、初当選した。1997年9月、通商産業省政務次官。2004年、参議院議院運営委員長に就任。 2006年9月、第1次安倍内閣で国家公安委員会委員長、内閣府特命担当大臣(防災)に任命され、副大臣や大臣政務官を経ずに初入閣した。しかし、在任中は数回にわたる失言や大臣規範違反が発覚。2007年7月の第21回参議院議員通常選挙では、広島県選挙区から自民党公認で出馬し、4選。選挙戦中に発生した新潟県中越沖地震に際しては、広島県での選挙運動を中止し、政府調査団長に就任して被災地を視察に訪れた。選挙後に発足した第1次安倍改造内閣では再任されなかった。2007年12月、日朝国交正常化を目指す議員連盟「自由民主党朝鮮半島問題小委員会」の立ち上げに参加し、副委員長に就任した。2008年に参議院予算委員長、2009年に参議院国家基本政策委員長をそれぞれ務めている。 2011年9月、自由民主党参議院議員会長の中曽根弘文は、参議院自民党の執行部人事において、当初は参院幹事長の小坂憲次、参議院政策審議会長の山本一太の両名を再任する意向だったが、2009年の第45回衆議院議員総選挙で落選し、2010年に参院に鞍替えしたばかりの小坂や、同じ群馬県選出の山本の続投に、町村・額賀・古賀3派からは批判が高まり、中曽根は一旦参院幹事長を鴻池祥肇に交代させる人事案を議員総会に提出するも、否決される。これを受け、中曽根は古賀派の溝手を参院幹事長に、町村派の岩城光英を政策審議会長に起用する新たな人事案を提出して承認され、溝手が自民党参議院幹事長に就任した。 2013年、5期目の当選を果たす。同年7月26日、中曽根の任期満了に伴う参院議員会長選挙に町村・額賀・古賀3派の後押しを受ける形で立候補し、82票を獲得。31票を獲得した鴻池祥肇を破り、自由民主党参院議員会長に選出された(2016年に更迭)。 2014年9月9日、参院執行部会において、参院幹事長の脇雅史から一票の格差を是正するための選挙制度改革に対する後ろ向きな姿勢を批判され、参院議員会長を辞任するよう求められる が、溝手は辞任に応じず、12日の特別総会で脇を参院幹事長から更迭した。選挙制度改革については新党改革の荒井広幸代表が事実上提案していた4つの選挙区を2つ合区して2つの合同選挙区を創設する公職選挙法改正案を受け入れる政治的決断をし、2015年7月28日に法案が国会で成立した。
※この「参議院議員初当選」の解説は、「溝手顕正」の解説の一部です。
「参議院議員初当選」を含む「溝手顕正」の記事については、「溝手顕正」の概要を参照ください。
- 参議院議員初当選のページへのリンク