自民党から新自由クラブへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:09 UTC 版)
「西岡武夫」の記事における「自民党から新自由クラブへ」の解説
1963年(昭和38年)11月、衆議院議員を5期務めた父・竹次郎と、吉田茂が率いる自由党初の女性参議院議員として婦人参政権運動に尽力した母・ハルの地盤を引継いだ世襲候補として第30回衆議院議員総選挙に無所属で立候補。4位当選を果たし、自民党の追加公認を受ける。前職の国会議員である母とともに初登院した。当初は三木派に所属し、自民党青年局長、文教部会長をつとめていた。 ロッキード事件を期に、衆議院議員の河野洋平、田川誠一、山口敏夫、小林正巳、参議院議員の有田一寿と共に、6人で自民党を離党。1976年(昭和51年)6月25日に「保守政治の刷新」を掲げて新自由クラブを結党し、西岡は幹事長に就任した。新自由クラブは、結成直後の第34回衆議院議員総選挙で、自民党に不満を持っていた保守層の受け皿になる形で、一挙に17人を当選させた(さらに追加公認1人)。しかし、政策、党の路線をめぐり、野党として革新にも配慮を示す河野や田川と、あくまで保守主義を念頭に置く西岡、山口らとの間に亀裂が生じ、1979年(昭和54年)7月に西岡は単独で新自由クラブを離党した。1980年(昭和55年)12月に自民党に復党したが、1983年(昭和58年)12月の総選挙では落選。
※この「自民党から新自由クラブへ」の解説は、「西岡武夫」の解説の一部です。
「自民党から新自由クラブへ」を含む「西岡武夫」の記事については、「西岡武夫」の概要を参照ください。
- 自民党から新自由クラブへのページへのリンク