明代の刊本
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明代後期の刊本はいずれも世徳堂本の系統から出ている。 世本以降の主な繁本系の刊本としては、明代末期に成立した『李卓吾先生批評西遊記』(李卓吾本)がある。序文に若干の変化がある以外、本文はほぼ世徳本と同様であり、李卓吾の註釈と挿絵200点添えられているのが特徴である。李贄(字は卓吾、1527年 - 1602年)は陽明学者で、童心説(偽りや汚れのない心を尊ぶ)で知られ、『水滸伝』や『三国志演義』などの通俗小説を高く評価していた。経書や史書・詩文を最高としていた儒教的価値観から逸脱していたため、迫害され獄中で自殺する。しかし出版業界では通俗文学を評価した李卓吾の名声は高く、葉昼などの文人が李卓吾の名を借りて小説に批評をつけ、売りにすることが流行した。『西遊記』の李卓吾本も同様である。 一方、簡本系においては、『唐三蔵出身全伝』(楊致和本、略して楊本)や『唐三蔵西遊伝』(朱鼎臣本、略して朱本)などが、世徳堂本よりやや遅れて登場したとみられる。楊致和本は4巻40則で、世本をかなり乱暴に省略した簡本である。一方朱鼎臣本は10巻67則で、前半部は比較的省略の度が低く、後半に行くに従って記述が簡略化する竜頭蛇尾の構成で、単純な簡本とは言えず、前繁後簡本ともいうべき変則的な刊本である。このほか簡本系には万暦31年(1603年)刊『新鐫全像西遊記伝』20巻(表題に「清白堂楊閩斎梓行」とあるため、清白堂本と呼ぶ。内閣文庫蔵)、崇禎4年(1631年)刊『新刻増補批評全像西遊記』(序末に「閩斎堂楊氏居謙校梓」とあることから閩斎堂本と呼ぶ。旧奥野信太郎蔵)などがある。 かつて魯迅は、呉承恩が楊致和本を元に文繁本を書いたとする説を唱えていた。すなわち先に簡本があり、それに文章を挿増して繁本としたという説で、胡適らはこれを強く批判した。その後鄭振鐸は朱鼎臣本を調査し、楊本・朱本はともに"呉承恩本"を簡略化したものであり、さらに朱本は前半を呉承恩本、後半を楊本を参考にしており、呉承恩本→楊本→朱本の順に成立したとする説を唱えた。刊本の形式などから、鄭振鐸は楊本・朱本を隆慶(1567年 - 1572年)・万暦(1573年 - 1620年)年間の刊行と見るが、世徳堂本との前後関係は不明とする。ところで、上記の版本のうち朱本にのみ、他の明刊本には見られない「陳光蕊江流和尚」(後述)が挿入されていることが大きな特徴となっている。そこで太田辰夫は江流和尚をはじめ朱本前半部の内容や使用される字句が、世本よりも古い本の内容を反映している可能性が高いと指摘。朱本は前半部を『西遊釈厄伝』、後半部は楊本を利用して作られたとし、世本以前の祖本として『西遊釈厄伝』を想定する根拠とした(なお太田は楊本は魯王府本に依拠したとする)。一方、磯部彰は楊本は清白堂本と版型・図像形式が類似することから、楊本が依拠したのは清白堂本だとする。このように明代刊本の位置づけには諸説あって、未だ系統関係は明らかでない。
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