江流和尚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 15:55 UTC 版)
「陳光蕊江流和尚」は、三蔵法師の生い立ちを語る以下のような荒唐無稽な伝説である。 三蔵法師の父である陳萼(字は光蕊)が、地方長官として任地へ赴任する途中、水賊の劉洪に襲われて落命し、母の殷温嬌は劉洪に強要されて妻となるが、赤児が殺されそうになったため、左足の小指を噛み切って目印とした上で、板にくくりつけて川に流した。 流された赤児は、金山寺の長老法明和尚に救われ、江流という名を与えられる。のち成人して出家し玄奘の法名を授かり、拾われて育てられた経緯を聞き、劉洪に幽閉されていた母を捜し当てる。その後母の父である丞相殷開山が力を貸し、洪州太守になりすましていた劉洪を捕らえ、光蕊が殺された場所で処刑する。すると川底から光蕊が浮かび上がり、復活。母は自らの不貞を恥じ、自害した この話は全くのでたらめであり、史実における玄奘の父の名は陳恵、母は宋氏である。金山寺は鎮江の西北にある実在の寺だが、玄奘と関わりはない。世徳堂本にはこの説話が見られないが、元々の構成に含まれていたのに後で削除されたということは、第99回に八十一難が列挙される中で第一難から第四難までが江流和尚説話に相当することから明らかである。内容が荒唐無稽に過ぎるため削除されたと思われるが、朱鼎臣本で復活し、以降の刊本には載せられるようになった。 この物語はすでに呉昌齢撰「唐三蔵西天取経」劇に、主人公(陳了縁)が西天へ出立する前に生い立ちを語る場面で父「陳光蘂」について語るなど、元代から西天取経物語にその痕跡を留めている。『朴通事諺解』にはそれらしき痕跡は見られないが、楊劇西遊記では第1齣から第4齣までが江流和尚の話になっている。弘治年間(1488年 - 1500年)に編纂された河南省偃師県の地誌『偃師県志』でもこの説話が触れられており、玄奘の故郷河南省でも当時この話が知られていたことが分かる。 江流和尚説話は、前半部(陳光蕊が地方に任官した際に新妻が賊に奪われ赤児を川へ流す)の「陳光蕊」と、後半部(流された嬰児が高僧となる)の「江流和尚」に二分できる。前半の「陳光蕊」につながる話としては、古くは南宋の周密『斉東野語』巻8に、呉季謙という役人が捕らえた賊が、以前役人を殺して妻を奪った際に、その妻が子供を漆の盒(丸い箱)に入れて流したと語り、十数年後にその妻がある寺の僧坊で漆盒を見つけたので、坊主を呼んでみると亡夫に生き写しだったため、妻は訴え出て呉季謙に賊を捕らえてもらった、という記事が見られる。ただし話の内容は陳光蕊とよく似ているが、三蔵や金山寺とは全く関わりがない。一方、同じく南宋の書で、斉天大聖伝説を載せる『陳巡検梅嶺失妻記』との関連性も指摘されている。『失妻記』の陳辛(陳巡検)も陳光蕊と同じ陳姓であり、江南の地方官へ就任し、新妻を奪われるという基本的プロットが共通するのである。 後半の「江流和尚」に関しても、金山寺に類似した伝説があったという。元末の兵乱で、逃げ惑う女性が誤って赤児を水中に落としてしまった。翌日、兵士が水に浮かぶ赤児を発見して連れ帰り、集慶寺の僧が育てた。それが後に金山寺の住持となった長住禅師だという。長住の俗姓も玄奘と同じ陳であり、これが「江流和尚」伝説に牽強附会された可能性もある。陳光蕊江流和尚は『失妻記』の骨格を利用して、玄奨の父母にまつわる因縁談として作られ、それに金山寺の江流伝説とつなぎあわせられて、高僧出身譚として仕立てられたものであると思われる。
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