元本西遊記
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13世紀後半にモンゴル帝国の元朝が成立した頃には、これまでの西天取経エピソード群は、一つのまとまった物語「西遊記」として構成されることとなった。完成した書物の形として現存はしていないものの、この時期に成立したと推測される西遊記物語を「元本西遊記」と呼ぶ。この「元本西遊記」は『西遊記』の原型であり、作品の規模こそ小さかったが、現行『西遊記』の主要な登場人物は、すでにほぼ登場していたらしい。 まとまった話としては、戯曲系と小説系の物語が存在していたようだが、いずれも散佚して現存しないため全体の詳細は不明である。しかし前者の戯曲(演劇)系統は、明末の選曲集『万壑清音』に呉昌齢撰の「唐三蔵西天取経」劇として、一部が収録されている。また後者の小説系統は、高麗の通訳官が朝鮮半島へ将来したものが『朴通事諺解』および、李氏朝鮮期の『老朴集覧』という中国語会話書に、それぞれ一部が引用されている。 呉昌齢の唐三蔵取経劇は、なぜか主人公の三蔵法師の法名が玄奘ではなく「了縁」となっている。おそらく聖者としての玄奘の名を汚さないようにするために改名したものであろう。陳了縁の生い立ちについて、父親を陳光蘂といい、赤児の頃に両親が水賊に襲われて江に流され、金山寺の平安長老に拾われて育てられたという、いわゆる「江流和尚」伝説(後述)が語られている点が注目される。 また『朴通事諺解』(1677年刊)は、崔世珍(1473年 - 1542年)が改訂した『朴通事』と『朴通事集覧(老朴集覧)』を合わせたもので、『朴通事』下巻に車遅国のくだり(現行『西遊記』では第45回)についてかなり詳しく述べた注釈8本が載せられている。『朴通事』の成立年代は至正7年(1347年)よりやや後と推定されており、そこに記載された文章も元本西遊記の形跡を残していると考えられる。この注釈から、元本西遊記の姿をある程度復元することが可能となっている。 前代までの物語から大きく変化しているのは、主人公が三蔵法師から斉天大聖「孫吾空」(孫行者とも)に代わったことである。物語序盤にも、現行の『西遊記』と同様に、斉天大聖が天界を騒がすエピソードが語られていたようである。その造形には、福建の白猿伝の系譜にある妖猿「斉天大聖」伝説や、密教の大力金剛菩薩像などの影響がうかがえる。また宋代に登場した深沙神は、モンゴル時代の色目人僧侶やラマ教(チベット仏教)の護法神をモデルにして第二の弟子である「沙和尚」に変化した。さらに第三の弟子として、密教系の摩利支天菩薩が乗る車を引く豚をモデルに生まれた黒猪精「朱八戒」が初登場している。これら新しい弟子たちや、登場する妖怪たちは、元朝の高官であるモンゴル人やチベット人が信仰する密教と関連するものが多く、そのため宮廷権力者たちの人気を集めた。高麗から来た外交使者も、大都(北京)を訪問した際に、中国語会話に役立つ実用みやげとして買っていったものが、上記の『朴通事諺解』などに残ったものである。 『朴通事諺解』の註釈には三蔵取経の途上で受ける12の厄難が羅列してある箇所がある。それによれば、1.師陀国界で猛虎毒蛇に逢う、2.黒熊精、3.黄風怪、4.地湧夫人、5.蜘蛛精、6.獅子怪、7.多目怪、8.紅孩児怪、9.棘釣洞、10.火炎山、11.薄屎洞、12.女人国である。このほかに第88話として上述のように車遅国について語られるため、全部で13の災難となるが、これらの順序は現行の『西遊記』とは大きく異なる。順番通り記載されていないか、あるいは『西遊記』成立の過程で変化したかのどちらかと思われる。なお取経の旅にかかった年月はわずか6年とされている。 このように『朴通事諺解』から推測できる元本西遊記は、三蔵・悟空・悟浄・八戒の主要な面々がそろい、大鬧天宮から西天取経につながる筋を持つ、後の『西遊記』と大きく変わらない内容が盛り込まれていたようである。太田辰夫や磯部彰らは、後述の『銷釈真空宝巻』や楊劇西遊記などの資料と照合し、元本西遊記の復元を試みている。字数にして30,000字程度、『封神演義』の原型となった『武王伐紂平話』と同程度の規模だったと推測される。
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