明代の葉子戯
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明の「葉子戯」は、意味が宋のものとは異なっている。明の成化年間の陸容 (1466-1494)『菽園雑記』の記すところによると、当時の昆山で一種のカードゲームが流行しており、カードの総数は38枚であって、一銭から九銭・一百から九百・一万貫から九万貫・二十万貫から九十万貫・百万貫・千万貫・万万貫からなっていた。「糸巻き」の様に見える図柄は、「銭の穴に糸を通した束」で、「サイコロの目」の様に見える図は「銭を正面から見た図」である。一万貫以上のカードには『水滸伝』中の二十人の絵が描かれており万万貫は宋江・千万貫は武松等となっていた(ただし「混江竜李進」と「混江竜李海」が別人として存在するなど、現行の水滸伝とは名前が多少異なっている)。当時の人はこの種のカードを「葉子」と呼び、葉子を使ったカードゲーム自身のことは「葉子戯」と呼んでいた。今では水滸牌と呼ぶことが多い。 後世の文献に記載されている馬弔は、この葉子よりも2枚多い。清末の考証家の徐珂は宋代にすでに馬弔というゲームがあったとしているが、実際には、明・清になってはじめて馬弔に関する文献が見られる。かつ現存最古の馬弔に関する文献は、明の万暦年間に潘之恒が著した『葉子譜』と『続葉子譜』で、陸容の『菽園雑記』より一世紀ちかくも新しい。したがって陸容の記した葉子が馬弔カードの原型なのか、馬弔と同時代にあった変種であるのか、はっきりしない。 「葉子」は明末になると2つの意味を持つようになった。ひとつは後世にいう「馬弔」であり、もうひとつは馬弔に似た「酒牌」である。 後世の馬弔のサイズは今の中国の通常の紙牌と同様であったが、『葉子譜』に記すところによると、葉子は「古貝葉之遺製」であり、したがって当初はおそらく定規のようなサイズで、今の紙牌より長く、かつ名前のとおり葉が材料だったのであろう。しかし天啓年間の黎遂球『運掌経』によると「凡牌之用、有数適焉、大可一寸、高倍出之、厚僅盈指、紙軽小、便易挟以偕遊」とあり、明末の馬弔はすでに紙製であったようだ。明代の馬弔は全部で40枚からなり、「十字・万字・索子・文銭」の4つの門(スート)があった。ここで「十字」は十万貫・「索子」は百文にあたる。スートごとに枚数が事なっており、「十字・文銭」門は11枚、「万字・索子」門は9枚からなっていた。 明の馬弔のスート → 高 十字門 二十 三十 四十 五十 六十 七十 八十 九十 百万 千万 尊万万貫 万字門 一万 二万 三万 四万 五万 六万 七万 八万 尊九万貫 索子門 一索 二索 三索 四索 五索 六索 七索 八索 尊九索 文銭門 九銭 八銭 七銭 六銭 五銭 四銭 三銭 二銭 一銭 半文銭 尊空没文 各門の最高のカードには「尊」の字が冠せてある。文銭には穴があいているため、その意をとって、一文の銭もない「空没文」を尊とし、かつ文銭門のランクの順序は他の三門とは逆になっていて、後世の紙牌とは異なっている。千万は別名を千兵といい、後世には老千とも呼んだ。空没文は別名を齾客といい、後世には空湯・空湯瓶・空堂・空文とも呼んだ。半文銭は別名を枝花といい、後世には半枝花・半齾とも呼んだ。陸容の述べている葉子と同様に、馬弔の十と万の2つの門にも『水滸伝』の登場人物の絵が印刷されていた。しかし、陸容のいう「百」字門は、馬弔では「索子」と呼ばれ、馬弔の空没文と半文銭の2枚については陸容は言及していない。 陸容と潘之恒では水滸伝の人物名にも多少の違いがある。潘之恒のものは現行の『水滸伝』とよく一致し、水滸伝の伝承の変化を反映しているものであろう。 カード陸容潘之恒八十 混江竜李進 美髯公朱仝 六十 鉄鞭呼延綽 双鞭呼延灼 四十 賽関索王雄 黒旋風李逵 二十 一丈青張横 一丈青扈三娘 六万 混江竜李海 九紋竜史進 五万 黒旋風李逵 混江竜李俊 馬弔を使ったカードゲームは、明末には総称して「葉子戯」といった。葉子戯に使うカードのことを「馬弔」と呼ぶのも、後世の人の言い方にすぎない。明代の葉子戯で記録の残るものには、馬弔・看虎・扯章(扯張とも書き、「扯三章・扯五章」の2種類があった)の3種がある。看虎と扯章では馬弔の十字門から「千万」以外をすべて除いた30枚のカードを使用していた。同様に30枚だけのカードを使って行うゲームおよびカードのことを、清代には遊湖と呼んだ。馬弔・看虎・扯章の3種類のゲームは派生関係にはなかったが、清代に「馬弔」をカードの名称としたために、看虎・扯章を馬弔から派生したと誤解するようになった。明代にはゲーム名とカード自身の名前ははっきり呼び分けられていた。馬弔・看虎・扯章は、明の『葉子譜・続葉子譜・運掌経』および文学家馮夢竜の『牌経十三篇・馬弔脚例』の中で、つねにゲームの名称として使われ、カード自身は「葉子・崑山牌・蝋牌」等とさまざまに呼ばれたが、「馬弔」と呼んだ例はない。 ゲームとしての馬弔は明末に流行し、多くの士大夫を迷わせた。清の初めには「明は馬弔で滅んだ」という説さえ現れた。馬弔を古代の麻雀であると考える人があるが、しかし『葉子譜・続葉子譜・馬弔脚例』によれば、明代の葉子戯はすべて大を以て小を撃つトリックテイキングゲームであり、麻雀のようなラミー系のゲームとはまったく異なっていた。 明代において、「葉子」という語は、さらに酒牌を意味することもあった。これは酒令のための道具であり、カードの構成は馬弔と似ていたが、サイズとカードのデザインに違いがあった。現存最古の酒牌は明の万暦年間の『元明戯曲葉子』で、潘之恒の『葉子譜』と同時代のものである。『葉子譜』によると、「葉子始於崑山、初用『水滸伝』中名色為角抵戯耳、後為馬掉……銭数賤九而貴空殊、倒置有味」、しかし「至酒牌出而古意逾失、用之逾浅。禅爵花妓、既已不倫、甚至淫媟欲嘔、徒敗人興」とあり、最初にゲーム用の葉子があり、そこから酒令用の葉子ができたようである。なお、酒牌を「葉子」とは言ったが、それを使った酒令のことを「葉子戯」ということはなかった。 馬弔のカードと麻雀牌の対応関係は次の通りとされている: 文銭門(一銭~九銭)-筒子 索子門-索子 万字門-萬子 空没文(齾客・空湯・空湯瓶・空堂・空文)-白 千万(千兵・老千)-發 半文銭(枝花・半枝花・半齾)-中 千万以外の十字門には対応する麻雀牌がなく、また麻雀の風牌に対応する馬弔のカードはない。
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