ジョゼ (ブラジル公)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/15 06:12 UTC 版)
ジョゼ・デ・ブラガンサ José de Bragança |
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ブラジル公 | |
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在位 | 1777年 - 1788年 |
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称号 | ブラガンサ公 ベイラ公 |
出生 | 1761年8月20日![]() |
死去 | 1788年9月11日(27歳没)![]() |
埋葬 | ![]() |
配偶者 | マリア・フランシスカ・ベネディタ・デ・ブラガンサ |
家名 | ブラガンサ家 |
父親 | ポルトガル王ペドロ3世 |
母親 | ポルトガル女王マリア1世 |
ブラジル公ジョゼ(ポルトガル語: José, Príncipe do Brasil、1761年8月20日 - 1788年9月11日)は、ポルトガルの王位継承者。ブラジル公、ブラガンサ公およびベイラ公。ポルトガル女王マリア1世とその夫君ペドロ3世の間の長男。全名はジョゼ・フランシスコ・シャヴィエル・デ・パウラ・ドミンゴス・アントニオ・アゴスティーニョ・アナスタシオ・デ・ブラガンサ(ポルトガル語: José Francisco Xavier de Paula Domingos António Agostinho Anastácio de Bragança)。
生涯
ジョゼは当時の王位継承者だったマリア1世夫妻の第一子、長男としてリスボン郊外のアジュダ宮殿で生まれ、当時の国王である祖父にして伯父のジョゼ1世の洗礼名を受け継いだ。ジョゼ1世はそれまでブラガンサ王家の第一王女にのみ与えられてきたベイラ公の称号を、初孫ジョゼに与えた。王位継承者である母親のブラジル女公マリアが女性だったため、彼女に男子の後継者が生まれたことは非常に喜ばれた。
1777年2月21日、15歳のジョゼは母の妹で30歳のマリア・フランシスカ・ベネディタ王女と結婚した。ベネディタは魅力的な女性で、以前からジョゼの有力な花嫁候補だった。この甥と叔母の結婚は、国王ジョゼ1世の強い意志で実現したものでもあった。二人の結婚から3日後、ベイラ公ジョゼの祖父にして義父である国王ジョゼ1世が亡くなり、母マリア1世が即位した。ジョゼはポルトガル王太子となり、同時にブラジル公および第16代ブラガンサ公となった。
ブラジル公ジョゼは1788年に天然痘に罹り、リスボン港に停泊していた王家の儀式用遊覧船の上で急死した。ジョゼと妻ベネディタ王女の間に子供はなく、弟のジョアン(後のジョアン6世)が王太子となった。ジョゼの母マリア1世と妻ベネディタ王女の嘆きは深く、特にマリア1世の精神異常は後継ぎ息子の早世によりひどく悪化した。
ジョゼの遺骸はブラガンサ家の歴代国王が眠るサン・ヴィセンテ・デ・フォーラ修道院に安置された。
脚注
「ジョゼ (ブラジル公)」の例文・使い方・用例・文例
- 彼女は何か不思議で…かわいらしくなかった−ジョゼフ・コンラッド
- 1830年にジョゼフ・スミスによって設立され、ユタ州ソルトレイク市に本部を置く教会
- ジョゼフとメアリの家として福音書で言及される北イスラエルの歴史的にゆかりのある町
- 米国の映画女優(ドイツ生まれ)で、ジョゼフ・フォン・スターンバーグと多くの映画を作り、後にキャバレースターとして成功した(1901年−1992年)
- フランスの発明家で、(彼の兄ジョゼフ・ミシェル・モンゴルフィエと共に)熱気球の先駆者となった(1745年−1799年)
- ジョゼフ・スミスの暗殺の後のモルモン教会の米国の宗教指導者
- 駐日ローマ法王庁大使であるジョゼフ・チェノットゥ大司教は,その式典で「この地が,訪れる人々に希望を与え,愛を育(はぐく)むのを助ける巡礼所となりますように。」と述べた。
- 一方,リンカーンの長男,ロバート(ジョゼフ・ゴードン=レヴィット)は両親の強い反対にもかかわらず,北軍に志願する。
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