アニェス・ド・メラニー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/16 14:24 UTC 版)
アニェス・ド・メラニー Agnès de Méranie |
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フランス王妃 | |
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在位 | 1196年6月1日 - 1201年7月19日 |
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全名 | アニェス=マリー・ダンデスク=メラニー Agnès-Marie d'Andechs-Méranie |
出生 | 1180年頃 |
死去 | 1201年7月20日![]() |
埋葬 | ![]() |
結婚 | 1196年6月1日 |
配偶者 | フランス王フィリップ2世 |
子女 | マリー フィリップ・ユルプル ジャン=トリスタン |
家名 | アンデクス家 |
父親 | メラーン公ベルトルト4世 |
母親 | アグネス・フォン・ロホリッツ |
アニェス・ド・メラニー(フランス語:Agnès de Méranie)またはアニェス・ダンデクス(フランス語:Agnès d'Andechs, 1180年頃 - 1201年7月20日)、ドイツ語名アグネス=マリア・フォン・アンデクス=メラニーン(ドイツ語:Agnes-Maria von Andechs-Meranien)は、フランス王フィリップ2世の3番目の王妃。父はメラーン公ベルトルト4世、母はアグネス・フォン・ロホリッツ。姉にシレジアの守護聖人として知られるヤドヴィガ(ヘートヴィヒ)がいる。
生涯
フィリップ2世は1190年に最初の王妃イザベル・ド・エノーと死別した後、1193年にデンマーク王女インゲボルグと再婚したものの、彼女が気に入らず、離婚を宣言して1196年にアニェスと結婚した。アニェスはフィリップ2世が心を打たれる程の「並外れた」美女であったとされる。
しかし、インゲボルグは離婚を認めず、ローマ教皇ケレスティヌス3世に訴えた。結果、この結婚は無効とされたが、フィリップ2世はそれを認めず、なおもアニェスを王妃とした。
その後、イングランド王ジョンとの対抗上、教皇の支持を求めることになり、やむなく1201年に表面上アニェスと別れた[1]。アニェスは自分に飽きたせいで王に捨てられたと思い込み、悲嘆により病に罹り、同年のうちに若くして王との3人目の子、ジャン=トリスタンの出産中に死去。ジャン=トリスタンも生後間もなく夭折した。アニェスを愛していたフィリップ2世は大変悲しんだとされる。
遺体は現イヴリーヌ県にあるサン=コランタン王立修道院(Abbaye Saint-Corentin)に埋葬された。アニェスとの間に生まれたフィリップ・ユルプル(1201年 - 1235年)と娘マリーは教皇庁により嫡子と認められた[2]。マリーはブラバント公アンリ1世と結婚した。
アニェスの死後、フィリップ2世はインゲボルグを監禁状態に置いていたが、教皇の要求やインゲボルグの兄ヴァルデマー2世との和解のため、1213年に彼女を呼び戻し、再び王妃として遇した。
脚注
参考文献
- 佐藤賢一 『カペー朝 フランス王朝史1』 講談社現代新書、2009年
固有名詞の分類
フランスの王妃 |
マリー・レクザンスカ マリー・ド・リュクサンブール アニェス・ド・メラニー ブランシュ・ド・カスティーユ クロード・ド・フランス |
アンデクス家 |
シロンスクのヤドヴィガ アニェス・ド・メラニー |
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