『アンリ4世の生涯』とは? わかりやすく解説

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『アンリ4世の生涯』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 08:04 UTC 版)

マリー・ド・メディシスの生涯」の記事における「『アンリ4世の生涯』」の解説

もともとは『マリー・ド・メディシスの生涯』制作依頼に、アンリ4世生涯描いた絵画の制作含まれていたが、結局完成することはなかった。この通称『アンリ4世の生涯』は24点からなる連作で、アンリ4世その生涯に「経験した戦争遠征都市包囲戦などの軍事的成功」を描く予定になっていた。リュクサンブール宮殿マリーが住む翼棟とアンリ4世住んでいた翼棟は、アーチ構造展示部分接続される計画になっていた。最終的に『マリー・ド・メディシスの生涯』と『アンリ4世の生涯』が完成すれば、この展示室にそれぞれの連作絵画対になる絵画とともに飾られる予定だった。 『マリー・ド・メディシスの生涯』制作中だった時期に、ルーベンスは『アンリ4世の生涯』用の下絵描いていない。ルーベンス残した書簡には、その主題が「あまりに大規模壮大であるため、展示室が10は必要でしょうと書かれた箇所がある。また、1628年1月27日には、ルーベンスこれまで一度も『アンリ4世の生涯』用の下絵描いたとがない発言した記録残っている。のちにルーベンスが『アンリ4世の生涯』のために描いた9点油彩下絵5点大きな未完絵画現存している。下絵多くは『パリ攻略のようなアンリ4世関係した戦争主題として描かれていた。 『アンリ4世の生涯』が未完終わった重要な理由として、当時政治的情勢挙げられる1631年マリー・ド・メディシスは、国王ルイ13世凌駕するほどの権力持っていた枢機卿リシュリューによってパリ追放された。その結果リュクサンブール宮殿展示室の建築何度となく延期され、『アンリ4世の生涯』の制作計画も完全に停止されている。そして『アンリ4世の生涯』の制作に関する全権任されリシュリューは、虚構基づいたアンリ4世絵画の制作中止ルーベンス言い渡したリシュリューが『アンリ4世の生涯』の制作中止決めたのは、政治的な側面大きかったスペイン王家から外交官としても重用されていたルーベンスは、この時期マドリード滞在しスペインイングランド親善外交任務のためにロンドンへ赴く準備をしていた。ルーベンス受けていたこの任務は、リシュリュー掲げ外交政策とは真っ向から反するものだったルーベンスリシュリューから疎まれるようになり、リシュリュールーベンス代わりとなるイタリア人芸術家熱心に探し始めたルーベンス制作作業途絶えがちとなっていき、1631年マリー追放されると『アンリ4世の生涯』の制作が完全に中止されることとなったのであるルーベンスにとってみれば、政治的背景理由とした絵画制作中止茶番であり、このことが自身画家としてのキャリアに及ぼすかもしれない影響にも楽観的だった。「私はすでに他からの依頼による作品取りかかってます。この作品題材以前のもの(『アンリ4世の生涯』)よりも、私の評価上げてくれることを確信しています」 『アンリ4世の生涯』の下絵中にアンリ3世ナバラアンリ和解』と呼ばれるアンリ4世フランス王の座に大きく近づことになった出来事主題とした重要な下絵がある。当時フランス王アンリ3世で、アンリ3世には継嗣がいなかったために弟のアンジュー公フランソワ王位継承権第一位だった。しかしながらフランソワ1584年死去すると、フランス王継承者ナバラアンリ(後のフランス王アンリ4世)だと目されるようになったしかしながら教皇勅書で、ナバラアンリフランス王継承無効カトリック教会からの破門宣言されたため、ナバラアンリはこれに異議申し立てフランス王継承巡って「三アンリ戦い (en:War of the Three Henrys)」に突入していった。その後対立していたカトリック同盟指導者ギーズ公アンリ1世暗殺したことでパリ追われアンリ3世は、ナバラアンリ会見しナバラアンリ王位継承権認めることで和解して事態の収拾図ろうとした。この時の情景ルーベンス描いた下絵アンリ3世ナバラアンリ和解』は玉座謁見室を舞台としているが、当時の記録によると両者会見多数人々注視されている庭で行われている。『アンリ3世ナバラアンリ和解』では、アンリ3世の前で頭を垂れるナバラアンリ描かれており、当時目撃証言からもこの様子が事実であることが確実視されている。『アンリ3世ナバラアンリ和解』にはアンリ3世の上王冠持ち上げプット描かれており、フランスアンリ4世移譲されることを示唆している。ただし実際にナバラアンリアンリ4世として政権掌握するのは、数カ月後の1589年8月1日アンリ3世暗殺されてからのことだった。ナバラアンリ背後には、ナバラ王の記章である羽飾りつきの兜を持つ小姓描かれ、その足元に忠誠象徴する描かれている。アンリ3世背後には、おそらくは詐欺」と「不和」を擬人化した2人不吉な人物像描かれている。 『アンリ4世の生涯』は、アンリ4世経験した数々戦争主題となっていた。その暴力的激し構成は、『マリー・ド・メディシスの生涯』描かれた平和や威厳ある人柄といった構成好対照といえるものになっている。『イヴリー戦い』(ウフィツィ美術館フィレンツェ)は、アンリ4世パリ統一するにあたって、もっとも重要な役割果たした戦い描いた下絵である。主にグレイ彩色されたこの下絵には「アンリ4世戦い中でもっとも有名」な戦いで際立つ、戦装束に身を包んで燃え上がる剣を掲げアンリ4世描かれている。アンリ4世背後には勝ち戦狂乱する、後ろ足で立つ馬や落馬した騎士などの軍勢描かれている。この『イヴリー戦い』は『マリー・ド・メディシスの生涯』『サン=ドニの戴冠』対になる作品として描かれる予定だった。 『アンリ4世パリへ凱旋』(ウフィツィ美術館フィレンツェ)の下絵には、最後重要な戦い終えてパリ凱旋するアンリ4世描かれている。ルーベンスはこの『アンリ4世パリへ凱旋』を「もっとも大規模重要な絵画としてリュクサンブール宮殿展示室の最後を飾るに相応し作品にしたいと考えていた。『アンリ4世パリへ凱旋』には平和を象徴するオリーヴの枝を手に、古代ローマ皇帝装束パリへ凱旋するアンリ4世描かれている。とはいえ実際にアンリ4世ローマ皇帝出で立ちパリ凱旋したことはない。あくまでもローマ皇帝装束は、勝利象徴として採用されていると考えられている。描かれている建物凱旋門当時パリには存在していなかった。何らかの歴史的出来事をもとにしているのではなく古典的な寓意であり、この時点でのアンリ4世最終的な目標フランス王位だった。『アンリ4世パリへ凱旋』は『マリー・ド・メディシスの生涯』『アンリ4世の神格化とマリーの摂政宣言』対になる作品だった。 『パリでのアンリ4世慈悲』は、『マリー・ド・メディシスの生涯』オリンポスでの平和を描いた情景対応しているアンリ4世の平和は俗界描かれマリーの平和は天界描かれている。『パリでのアンリ4世慈悲』には、アンリ4世軍勢反逆者たちをの上から川へ投げ込んでパリ攻略していく情景表現されている。その一方で画面左隅には、慈悲持って寛大な処置側近たちと話し合うアンリ4世の姿が描かれている。

※この「『アンリ4世の生涯』」の解説は、「マリー・ド・メディシスの生涯」の解説の一部です。
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