『アンリ4世の生涯』
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「マリー・ド・メディシスの生涯」の記事における「『アンリ4世の生涯』」の解説
もともとは『マリー・ド・メディシスの生涯』の制作依頼に、アンリ4世の生涯を描いた絵画の制作も含まれていたが、結局完成することはなかった。この通称『アンリ4世の生涯』は24点からなる連作で、アンリ4世がその生涯に「経験した戦争、遠征、都市包囲戦などの軍事的成功」を描く予定になっていた。リュクサンブール宮殿のマリーが住む翼棟とアンリ4世が住んでいた翼棟は、アーチ構造の展示室部分で接続される計画になっていた。最終的には『マリー・ド・メディシスの生涯』と『アンリ4世の生涯』が完成すれば、この展示室にそれぞれの連作の絵画が対になる絵画とともに飾られる予定だった。 『マリー・ド・メディシスの生涯』を制作中だった時期に、ルーベンスは『アンリ4世の生涯』用の下絵を描いていない。ルーベンスが残した書簡には、その主題が「あまりに大規模で壮大であるため、展示室が10は必要でしょう」と書かれた箇所がある。また、1628年1月27日には、ルーベンスがこれまでに一度も『アンリ4世の生涯』用の下絵を描いたことがないと発言した記録も残っている。のちにルーベンスが『アンリ4世の生涯』のために描いた、9点の油彩下絵と5点の大きな未完の絵画が現存している。下絵の多くは『パリ攻略』のようなアンリ4世が関係した戦争を主題として描かれていた。 『アンリ4世の生涯』が未完に終わった重要な理由として、当時の政治的情勢が挙げられる。1631年にマリー・ド・メディシスは、国王ルイ13世を凌駕するほどの権力を持っていた枢機卿リシュリューによってパリを追放された。その結果リュクサンブール宮殿の展示室の建築が何度となく延期され、『アンリ4世の生涯』の制作計画も完全に停止されている。そして『アンリ4世の生涯』の制作に関する全権を任されたリシュリューは、虚構に基づいたアンリ4世の絵画の制作中止をルーベンスに言い渡した。リシュリューが『アンリ4世の生涯』の制作中止を決めたのは、政治的な側面も大きかった。スペイン王家から外交官としても重用されていたルーベンスは、この時期マドリードに滞在し、スペインとイングランドの親善外交の任務のためにロンドンへ赴く準備をしていた。ルーベンスが受けていたこの任務は、リシュリューが掲げる外交政策とは真っ向から反するものだった。ルーベンスはリシュリューから疎まれるようになり、リシュリューはルーベンスの代わりとなるイタリア人芸術家を熱心に探し始めた。ルーベンスの制作作業も途絶えがちとなっていき、1631年にマリーが追放されると『アンリ4世の生涯』の制作が完全に中止されることとなったのである。ルーベンスにとってみれば、政治的背景を理由とした絵画制作の中止は茶番であり、このことが自身の画家としてのキャリアに及ぼすかもしれない影響にも楽観的だった。「私はすでに他からの依頼による作品に取りかかっています。この作品の題材が以前のもの(『アンリ4世の生涯』)よりも、私の評価を上げてくれることを確信しています」 『アンリ4世の生涯』の下絵の中に『アンリ3世とナバラ王アンリの和解』と呼ばれる、アンリ4世がフランス王の座に大きく近づことになった出来事を主題とした重要な下絵がある。当時のフランス王はアンリ3世で、アンリ3世には継嗣がいなかったために弟のアンジュー公フランソワが王位継承権第一位だった。しかしながらフランソワが1584年に死去すると、フランス王位継承者はナバラ王アンリ(後のフランス王アンリ4世)だと目されるようになった。しかしながら教皇勅書で、ナバラ王アンリのフランス王位継承権の無効とカトリック教会からの破門が宣言されたため、ナバラ王アンリはこれに異議を申し立て、フランス王位継承権を巡って「三アンリの戦い (en:War of the Three Henrys)」に突入していった。その後、対立していたカトリック同盟の指導者ギーズ公アンリ1世を暗殺したことでパリを追われたアンリ3世は、ナバラ王アンリと会見し、ナバラ王アンリの王位継承権を認めることで和解して事態の収拾を図ろうとした。この時の情景をルーベンスが描いた下絵『アンリ3世とナバラ王アンリの和解』は玉座の謁見室を舞台としているが、当時の記録によると両者の会見は多数の人々に注視されている庭で行われている。『アンリ3世とナバラ王アンリの和解』では、アンリ3世の前で頭を垂れるナバラ王アンリが描かれており、当時の目撃証言からもこの様子が事実であることが確実視されている。『アンリ3世とナバラ王アンリの和解』にはアンリ3世の上で王冠を持ち上げるプットが描かれており、フランスがアンリ4世に移譲されることを示唆している。ただし実際にナバラ王アンリがアンリ4世として政権を掌握するのは、数カ月後の1589年8月1日にアンリ3世が暗殺されてからのことだった。ナバラ王アンリの背後には、ナバラ王の記章である羽飾りつきの兜を持つ小姓が描かれ、その足元には忠誠を象徴する犬が描かれている。アンリ3世の背後には、おそらくは「詐欺」と「不和」を擬人化した2人の不吉な人物像が描かれている。 『アンリ4世の生涯』は、アンリ4世が経験した数々の戦争が主題となっていた。その暴力的で激しい構成は、『マリー・ド・メディシスの生涯』に描かれた平和や威厳ある人柄といった構成と好対照といえるものになっている。『イヴリーの戦い』(ウフィツィ美術館、フィレンツェ)は、アンリ4世がパリを統一するにあたって、もっとも重要な役割を果たした戦いを描いた下絵である。主にグレイで彩色されたこの下絵には「アンリ4世の戦いの中でもっとも有名」な戦いで際立つ、戦装束に身を包んで燃え上がる剣を掲げるアンリ4世が描かれている。アンリ4世の背後には勝ち戦に狂乱する、後ろ足で立つ馬や落馬した騎士などの軍勢が描かれている。この『イヴリーの戦い』は『マリー・ド・メディシスの生涯』の『サン=ドニの戴冠』と対になる作品として描かれる予定だった。 『アンリ4世のパリへの凱旋』(ウフィツィ美術館、フィレンツェ)の下絵には、最後の重要な戦いを終えてパリに凱旋するアンリ4世が描かれている。ルーベンスはこの『アンリ4世のパリへの凱旋』を「もっとも大規模で重要な」絵画として、リュクサンブール宮殿展示室の最後を飾るに相応しい作品にしたいと考えていた。『アンリ4世のパリへの凱旋』には平和を象徴するオリーヴの枝を手に、古代ローマ皇帝の装束でパリへ凱旋するアンリ4世が描かれている。とはいえ、実際にはアンリ4世がローマ皇帝の出で立ちでパリに凱旋したことはない。あくまでもローマ皇帝の装束は、勝利の象徴として採用されていると考えられている。描かれている建物や凱旋門は当時のパリには存在していなかった。何らかの歴史的出来事をもとにしているのではなく、古典的な寓意であり、この時点でのアンリ4世の最終的な目標はフランス王位だった。『アンリ4世のパリへの凱旋』は『マリー・ド・メディシスの生涯』の『アンリ4世の神格化とマリーの摂政宣言』と対になる作品だった。 『パリでのアンリ4世の慈悲』は、『マリー・ド・メディシスの生涯』のオリンポスでの平和を描いた情景に対応している。アンリ4世の平和は俗界に描かれ、マリーの平和は天界に描かれている。『パリでのアンリ4世の慈悲』には、アンリ4世の軍勢が反逆者たちを橋の上から川へ投げ込んで、パリを攻略していく情景が表現されている。その一方で画面左隅には、慈悲を持って寛大な処置を側近たちと話し合うアンリ4世の姿が描かれている。
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