フェリペ4世の宮廷
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「ラス・メニーナス」の記事における「フェリペ4世の宮廷」の解説
17世紀のスペインでは、画家が高い地位を得られることは、めったになかった。絵画は、あくまで工芸であって、詩や音楽のような芸術とは見なされなかった。しかし、ベラスケスは、フェリペ4世の宮廷で、苦労の末1651年2月、侍従長( aposentador mayor del palacio )に任命された。このポストのおかげで、ベラスケスは、地位と収入とを得ることができた。しかし、同時にその任務にかなりの時間をとられることとなった。人生最後の8年間で、彼は作品をほんの少し仕上げられただけだったが、その大部分は王家の肖像であった。『ラス・メニーナス』を描いたのは、彼が王宮で働き始めて33年目のことであった。 フェリペ4世の最初の妻イサベル・デ・ボルボンは、1644年に死去、一人息子のバルタサール・カルロスも2年後に死去した。王位継承者を亡くしたフェリペは、1649年マリアナ・デ・アウストリアと結婚、マルガリータ王女は彼らの間にできた最初の子であり、絵が描かれた時点では唯一の子でもあった。その後、弟のフェリペ・プロスペロ(1657–1661)が生まれたが短命に終わり、次いでカルロス王子(1661–1700)が生まれた。カルロスは4歳で、カルロス2世として王位に就いている。ベラスケスはマリアナとその子らの肖像画を描いた。フェリペ自身は老年期の自分を描かせることを嫌ったが、『ラス・メニーナス』に自分が登場することは許した。1650年代初期、フェリペ王は故バルタサール・カルロスの居室のピアザ・プリンシパル(主室)を宮殿美術館としてベラスケスに与え、彼のアトリエとした。『ラス・メニーナス』の舞台は、この部屋である。フェリペ王は自身のイスをアトリエに置き、座ってベラスケスの作製を眺めることがよくあった。厳しい礼儀に縛られながらも、芸術を愛した王と画家は、非常に緊密な関係を築いたようである。ベラスケスの死後、王はその後継者についての覚書のふちに「がっくりきた」と書き残している。 1640年代から1650年代にかけてのベラスケスは、宮廷画家と、フェリペ4世のヨーロッパ芸術のコレクションを集める学芸員の2役を務めていた。彼は自身の任務に関して、かなりの自由を与えられていたようである。ベラスケスは、最も価値ある絵画を保管する部屋の装飾やインテリアデザインについて指示し、鏡や彫像、タペストリーを付け加えた。彼は歴代スペイン王の肖像についても、典拠、作製者の特定、掲示、目録作成などの責任者を務めた。1650年代初めには、ベラスケスは鑑定家として、スペインで広く尊敬を集めていた。今日におけるプラド美術館のコレクションのほとんどは、ベラスケスの指示のもと集められたもので、その中にはティツィアーノ、ラファエロ、ルーベンスの絵も含まれている。
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