フェリペ4世の宮廷とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > フェリペ4世の宮廷の意味・解説 

フェリペ4世の宮廷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 14:35 UTC 版)

ラス・メニーナス」の記事における「フェリペ4世の宮廷」の解説

17世紀スペインでは、画家が高い地位得られることは、めったになかった。絵画は、あくまで工芸であって、詩や音楽のような芸術とは見なされなかった。しかし、ベラスケスは、フェリペ4世の宮廷で、苦労の末1651年2月侍従長( aposentador mayor del palacio )に任命された。このポストおかげでベラスケスは、地位収入とを得ることができた。しかし、同時にその任務かなりの時間とられることとなった人生最後8年間で、彼は作品ほんの少し仕上げられただけだったが、その大部分王家肖像であった『ラス・メニーナス』描いたのは、彼が王宮働き始めて33年目のことであったフェリペ4世最初の妻イサベル・デ・ボルボンは、1644年死去一人息子バルタサール・カルロス2年後死去した王位継承者亡くしたフェリペは、1649年マリアナ・デ・アウストリア結婚マルガリータ王女は彼らの間にできた最初の子であり、絵が描かれ時点では唯一の子でもあった。その後、弟のフェリペ・プロスペロ(1657–1661)が生まれた短命に終わり次いでカルロス王子(1661–1700)が生まれたカルロス4歳で、カルロス2世として王位に就いている。ベラスケスマリアナその子らの肖像画描いたフェリペ自身老年期自分を描かせることを嫌ったが、『ラス・メニーナス』自分登場することは許した1650年代初期フェリペ王は故バルタサール・カルロス居室のピアザ・プリンシパル(主室)を宮殿美術館としてベラスケス与え彼のアトリエとした。『ラス・メニーナス』舞台は、この部屋である。フェリペ王は自身イスアトリエに置き、座ってベラスケス作製眺めることがよくあった。厳し礼儀縛られながらも、芸術愛した王と画家は、非常に緊密な関係を築いたようである。ベラスケス死後、王はその後継者についての覚書のふちに「がっくりきた」と書き残している。 1640年代から1650年代にかけてのベラスケスは、宮廷画家と、フェリペ4世ヨーロッパ芸術コレクション集め学芸員2役務めていた。彼は自身任務に関してかなりの自由を与えられていたようである。ベラスケスは、最も価値ある絵画保管する部屋装飾インテリアデザインについて指示し、鏡や彫像タペストリー付け加えた。彼は歴代スペイン王肖像についても、典拠作製者の特定掲示目録作成などの責任者務めた1650年代初めには、ベラスケス鑑定家として、スペイン広く尊敬集めていた。今日におけるプラド美術館コレクションのほとんどは、ベラスケス指示のもと集められたもので、その中にはティツィアーノラファエロルーベンスの絵も含まれている。

※この「フェリペ4世の宮廷」の解説は、「ラス・メニーナス」の解説の一部です。
「フェリペ4世の宮廷」を含む「ラス・メニーナス」の記事については、「ラス・メニーナス」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「フェリペ4世の宮廷」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フェリペ4世の宮廷」の関連用語

フェリペ4世の宮廷のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フェリペ4世の宮廷のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのラス・メニーナス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS