フェリペ2世の統治権否認決議
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「オランダの歴史」の記事における「フェリペ2世の統治権否認決議」の解説
1580年9月、ユトレヒト同盟はフランス王アンリ3世の弟アンジュー公フランソワを新たにネーデルラントの君主として迎えることを決め(プレシ・レ・トゥール条約)、1581年7月にはユトレヒト同盟に参加した北部7州による連邦議会によって、フェリペ2世の統治権を否認する統治権否認令(英語版)を布告した。アンジュー公は1581年8月にネーデルラント入りしたが、ユトレヒト同盟側との意見の対立により、1583年6月にはフランスに戻ってしまう。更に1584年7月にはオラニエ公ウィレムが暗殺され、ユトレヒト同盟は指導者を欠く状態となった。 1585年1月、ユトレヒト同盟はアンリ3世に北部7州の主権を委ねることを申し出たが、この申し出はアンリ3世に拒否される。同年6月にはイングランド女王エリザベス1世に同様の申し入れをするが、これも断られ、代替策としてイングランド貴族レスター伯ロバート・ダドリーが執政として北部7州に迎えられることとなった。8月に入るとスペイン軍の封鎖を受けていたアントウェルペンが降伏、開城に至って焼き討ちを受け、退去したプロテスタント市民が大挙して北部へと逃れた。これをきっかけとして10万から15万に達するとみられる難民がそれまでの商工業の中心だった南ネーデルラントから北部のホラントとゼーラントに移動する事態となり、ネーデルラントの経済の中心はアントウェルペンから資本と商業のノウハウが移転されたホラントの中心都市アムステルダムに移ることとなった。レスター伯は1585年12月に兵士5000人を率いてネーデルラント入りするが、やはり意見の対立が発生して1587年12月に帰国。ハプスブルク家と対抗出来る有力君主に北部7州の主権を委ねるという戦略は完全に破綻した。
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