フェリペ2世のネーデルラント政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 15:36 UTC 版)
「オランダの歴史」の記事における「フェリペ2世のネーデルラント政策」の解説
カール5世は1555年にネーデルラント諸州を息子フェリペ2世に譲り、翌年にはスペイン王位も譲って隠居生活に入る。 フェリペ2世は1559年までネーデルラントに留まったが、この年に庶姉のパルマ公妃マルゲリータをネーデルラント全州総督に任命してスペインへ向かった。ネーデルラント諸州の政治はアラス司教のグランヴェルが事実上の最高責任者となった。一方、同年にはカトー・カンブレジ条約によってヴァロワ家とハプスブルク家の講和が成立したため、フランスからネーデルラントへ大量のカルヴァン派が流入を開始した。同年にはまた、ネーデルラント諸州の司教区再編が議論され、1562年には、それまでランス大司教区、ケルン大司教区、トリアー大司教区という、いずれもネーデルラント諸州外の大司教の管轄下に置かれていたネーデルラント諸州が新たにカンブレ、メヘレン、ユトレヒトの3つの大司教区に再編された。この結果、ネーデルラント諸州の貴族たちが持っていた教会関係の利権が失われることとなり、貴族たちの不満が募った。 1566年、再び強化された異端審問に反発し、ネーデルラント諸州の下級貴族たち300名ほどがマルゲリータに異端審問の中止を要求した。マルゲリータはこの要求を容れたが、その結果、亡命中だったプロテスタントの指導者たちがネーデルラント諸州に舞い戻り、活発な野外説教を行うようになった。8月にはカトリックの教会や修道院を標的にした打ち壊しがフランドル州で発生し、他の州にも広がっていった(聖像破壊運動)。これらの一連の動きの背景には、この年の極端な冷害による食料不足もあった。 1567年、フェリペ2世は事態を収拾するためにアルバ公を指揮官とする1万の部隊をネーデルラントに派遣した。8月にネーデルラント入りしたアルバ公は、徹底的なプロテスタントの取り締まりを行い、12月には穏健派のマルゲリータに代わってネーデルラント全州総督となった。一方、ネーデルラント諸州の貴族の中でも最有力者であったオラニエ公ウィレム1世は、アルバ公がネーデルラント入りする前の4月にドイツに逃亡していたが、アルバ公はオラニエ公およびそれに付き従った貴族たちの財産と所領を没収するという強硬策を採った。
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