フェリペ2世との結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 23:27 UTC 版)
「メアリー1世 (イングランド女王)」の記事における「フェリペ2世との結婚」の解説
母方からスペイン(カスティーリャ=アラゴン)王家の血を引くメアリーは、結婚の相手に従兄カール5世の子であるアストゥリアス公フェリペ(後のスペイン王フェリペ2世)を選んだ。しかしカトリックの宗主国のようなスペイン王太子との結婚は、将来イングランド王位がスペイン王位に統合されてしまう可能性を孕んでいただけに反対する者も多く、トマス・ワイアットらがケントでエリザベスを王位に即けることを求めて蜂起する事態となったが、反乱は鎮圧されワイアットは処刑された。この乱に連座する形で、ジェーン・グレイらを処刑している。この後にもいくつかの反乱が起こるが、そのいずれもがエリザベスを王位に即けることを旗印にしたものだった。 メアリーは幾多の反対を押し切り、1554年7月20日に11歳年下のフェリペと結婚した。フェリペには共同王としてのイングランド王位が与えられたが、1556年にスペイン王として即位するため本国に帰国、1年半後にロンドンに戻ったものの、わずか3か月後には再びスペインに帰国し、以後二度とメアリーに会うことはなかった。フェリペとの結婚後、メアリーには懐妊かと思われた時期もあったが、想像妊娠だった上、実は卵巣腫瘍を発症していた模様で、妊娠と思われたのはその症状だったと推測されている。 この結婚によって、イングランドはフランスとスペインの戦争(第六次イタリア戦争)に巻き込まれ、フランスに敗れて大陸に残っていた唯一の領土カレーを失うことになった(カレー包囲戦)。 悪いことづくめに終わったフェリペとの結婚の果てに、メアリーは自らの健康も害してその崩御の時期を悟るようになった。後継者は異母妹エリザベス以外にいなかったが、母を王妃の座から追いやった淫婦の娘としてメアリーはエリザベスのことを終生憎み続けており、崩御の前日になってしぶしぶ彼女を自身の後継者に指名するほどだった。 メアリー1世は5年余りの在位の後、卵巣腫瘍により1558年11月17日にセント・ジェームズ宮殿で崩御した。メアリーの命日はその後200年間にわたって「圧政から解放された日」として祝われた。
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