17世紀のスペイン裸婦画
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「鏡のヴィーナス」の記事における「17世紀のスペイン裸婦画」の解説
17世紀のスペインでは裸婦画は公式に禁じられていた。裸婦画は異端審問所によって没収、塗りつぶされ、わいせつ、不道徳な絵を描いたとみなされた画家は破門されるか、罰金あるいは一年間のスペイン追放といった処罰を受けた。しかしながら知識階級、貴族階級層では芸術の追求は道徳の問題にとらわれるものではないと考えられ、プライベート・コレクションには主に神話を題材にした多くの裸婦画が存在していた。芸術を愛し、ベラスケスのパトロンでもあったスペイン王フェリペ4世はティツィアーノやルーベンスが描いた裸婦像を多く所有しており、ベラスケスもフェリペ4世お気に入りの画家として、裸婦画を描くことを問題視する必要はなかった。当時の主要な絵画コレクターは、自身の個室に神話を主題とした裸婦画を飾っており、フェリペ4世の場合は「国王陛下が食後にくつろぐ部屋」に、先々代のスペイン王フェリペ2世から受け継いだティツィアーノの『ポエジア (poesies)』や、王自らルーベンスに描かせた裸婦画があった。『鏡のヴィーナス』もスペインにあった当時はこのような部屋に飾られていたのかも知れない。芸術を愛したフェリペ4世の宮廷では「絵画は多くの人々に歓迎され、裸婦画は特定の限られた人々に歓迎された。しかし同時に、裸婦画を描かないように画家たちは非常に大きな圧力をかけられた」 裸婦画に対する当時のスペインの姿勢は、他のヨーロッパ諸国に比べて独特のものだった。裸婦画はスペイン国内の鑑定家、知識階級たちに評価されていたが、懐疑的に見られることが多かった。胸元を見せる低いネックラインの服が当時の女性の間で着用されていたが、美術史家のザイーラ・ヴェリス は「著名な女性がこのように胸元をあらわにした姿は、礼節上絵に描かれることは難しいだろう」と述べている。17世紀のスペインにおいて芸術における裸体は、道徳、権力、芸術観などに束縛されていた。このような傾向はスペイン黄金世紀の文学にも影響しており、スペイン人劇作家ロペ・デ・ベガの戯曲である『La quinta de Florencia』では、神話を題材にしたミケランジェロが描いた半裸の人物の絵を見て女性を暴行する貴族が登場する。 対照的に当時のフランスでは、胸元があらわで、細いコルセットを身につけた女性の絵画がしばしば描かれた。しかしながらフランス王室による、裸婦が描かれたレオナルド・ダ・ヴィンチの有名な『レダと白鳥』やミケランジェロの作品破棄、コレッジョの作品に対する裸婦画部分の切断など、フランスでも裸婦画が論争の的になっていたことは明らかである。北欧では巧みに布で肌を隠した裸婦像は認められていた。胸があらわに描かれたルーベンスの『ミネルヴァに扮したマリー・ド・メディシス(Minerva Victrix, 1622年 - 1625年)』や、ヴァン・ダイクの『ヴィーナスとアドニスに扮したバッキンガム公爵夫妻(The Duke and Duchess of Buckingham as Venus and Adonis, 1620年)』などがある。 17世紀のスペイン美術では、神話上のシビュラ (en:sibyls)、ニンフ、女神などの描写であっても女性の身体は完全に隠された。1630年代から1640年代には風俗画、肖像画、歴史画からも胸をあらわにした女性はもちろん、腕を露出した女性すらも全くといえるほど描かれていない。1997年に美術史家のピーター・チェリーは、ベラスケスがこういった当時の風潮を克服しようとして、背中を向けたヴィーナスを描いたのではないかと推測している。18世紀半ばになっても、アルバ公爵のコレクションに加えられた裸体のヴィーナスを描いたイギリス人画家自ら「題材に問題があるため壁に掛けてはならない」としている。
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