17世紀のイスラーム世界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 07:36 UTC 版)
「近世における世界の一体化」の記事における「17世紀のイスラーム世界」の解説
イスラーム世界においては、17世紀は、ムガル朝インドのアーグラの「タージ・マハル」、サファヴィー朝イランのエスファハーンの「イマームのモスク」など、イスラーム建築の最高傑作がつくられた時代だった。 ムガル朝では、16世紀後半から17世紀初頭にかけてあらわれたアクバル大帝が、ヒンドゥー教徒の有力者を政権の重要な地位につけ、人頭税(ジズヤ)を廃止するなど融和政策をとって統治は安定したが、17世紀後半にアウラングゼーブが即位すると、このような妥協をやめ、イスラーム法の規定を重視したきびしい統治に転じたため、各地で反乱が相つぎ、かえって政権の基盤を弱める結果となった。 16世紀初頭にイラン高原の神秘主義集団のリーダーだったイスマーイール1世によって建てられたサファヴィー朝はシーア派を国教とし、ペルシアの伝統的な王の称号「シャー」を用いた。このように、サファヴィー朝は、イスラーム政権であると同時に国民国家の要素ももっており、アッバース1世のときに最盛期をむかえた。かれは、オスマン帝国からアゼルバイジャンを奪回し、1622年にはイングランドと結んでポルトガルと戦い、ホルムズからポルトガル勢力を追放し、また、帝国を脅かしていたウズベク族を討伐した。イングランド、オランダ、フランスとは同盟を結んで友好関係を築いた。首都エスファハーンは「世界の半分」と呼ばれるほどの繁栄をみたが、かれの死後、間もなくオスマン帝国の逆襲が開始され、10年も経ずにイラクは奪還された。 16世紀から17世紀前半のヨーロッパは最盛期のオスマン帝国に包囲され、常にその脅威にさらされていた。レパント海戦後もそれは変わらなかった。1612年、オスマン帝国はオランダにカピチュレーションを認めている。17世紀の半ばをすぎると、オスマン帝国はロシアやヨーロッパ諸国に対して武器や戦術の面で遅れをとり、軍事的に劣勢となった。17世紀末の第二次ウィーン包囲に失敗して以後、支配地は徐々に縮小し、財政状況が悪化した中央政府の威光と権限は、地方にとどきにくくなった。欧州諸国との16年にわたる大トルコ戦争の後1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約では、オスマン帝国の領土が初めてヨーロッパの国に割譲されることとなった。
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