休戦記念物の破壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/14 05:26 UTC 版)
3日後、休戦の場所の記念碑等はヒトラーの命令でドイツ軍によって破壊された。調印に使われた客車は、以下の銘文(フランス語)を刻んだ大きな石板の破片とともに、戦勝の記念としてベルリンに持ち去られた。 『1918年11月11日、ドイツ帝国の犯罪的な慢心は、それが隷属させようと試みた自由なる諸国民によって打ち破られ、ここに潰えた。』 そしてフォッシュ元帥の像のみを例外として、アルザス=ロレーヌ記念碑(ドイツを示す鷲が剣で突き刺されている)などの記念物は打ち壊された。フォッシュ元帥の像は、ヒトラーの命令により、無傷のまま何も無い荒れ地を見守るようにその場に取り残された。客車は1945年にテューリンゲンのクラヴィンケル (Crawinkel) に運ばれ、SS部隊によって破壊され、残骸は埋められた。
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