アントウェルペン時代(1609年 - 1621年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/31 09:16 UTC 版)
「ピーテル・パウル・ルーベンス」の記事における「アントウェルペン時代(1609年 - 1621年)」の解説
1608年に母マリアが病に倒れたことを聞いたルーベンスは、イタリアを離れてアントウェルペンへと戻ることを決めた。しかしながらマリアはルーベンスがアントウェルペンに戻る前に死去してしまった。母の病以外にルーベンスがアントウェルペンへと戻った理由の一つとして、当時ネーデルラント諸州とスペインとの間で勃発していた八十年戦争が、1609年4月の停戦協定 (en:Treaty of Antwerp (1609)) の発行によって12年間の休戦期 (en:Twelve Years' Truce) がもたらされたことがあげられる。この停戦協定によって当時のアントウェルペンは新たな隆盛を見せ始めていたのである。1609年9月にルーベンスは、スペイン領ネーデルラント君主のオーストリア大公アルブレヒト7世と大公妃でスペイン王女のイサベルの宮廷画家に迎えられた。当時アルブレヒト7世の宮廷が置かれていたブリュッセルではなく、アントウェルペンに工房を設置することを特別に許可されたルーベンスは、宮廷からの作品制作依頼だけではなく、他の顧客からの制作依頼も受けていた。1633年に大公妃イサベルが死去するまで、ルーベンスとイサベルの信頼関係は深く、ルーベンスは画家としてのみならず特使や外交官の役割もこなすようになっていた。ルーベンスは1609年10月3日にアントウェルペンの有力者ヤン・ブラントの娘イザベラ・ブラントと結婚している。 1610年にルーベンスは自身がデザインした新居に移り住んだ。現在では博物館として使われている、アントウェルペン中心部に位置するこのルーベンスの家はイタリア風の建築様式で建てられた邸宅(ヴィッラ)で、工房も併設されていた。弟子とともに幾多の絵画作品を制作する場所であると同時に、当時のアントウェルペンで最高級の私的美術品収蔵場所であり、同じく最高級の蔵書を誇る私的図書室でもあった。当時のルーベンスは多くの弟子と助手を抱えていた。ルーベンスの工房出身者でもっとも有名な芸術家になったのは、後年イングランドの宮廷画家となる若き日のアンソニー・ヴァン・ダイクである。ルーベンスの工房ですぐに頭角を現したヴァン・ダイクは、フランドルの肖像画家の第一人者となり、師のルーベンスと共同で絵画制作に当たることもよくあった。ルーベンスは、当時のアントウェルペンで活動していたほかの画家とも共同制作をすることがあり、動物画を得意としたフランス・スナイデルスや、自身の親友で花を得意としたヤン・ブリューゲル (父)らとの作品が現存している。 アントウェルペンの聖母マリア大聖堂の『キリスト昇架』(1610年)、『キリスト降架』(1611年 - 1614年)のような祭壇画は、イタリアから帰還して間もないルーベンスが、フランドルにおいても画家として第一人者であるという評価を確立するのにとくに重要な役割を果たした。例えば『キリスト昇架』は、ティントレットの『キリスト磔刑』の構成とミケランジェロの躍動感溢れる人体表現をルーベンス独自の作風で融合させた絵画となっており、バロック期宗教画の最高峰として高く評価されている作品である。 ルーベンスは絵画以外に版画や書物の装丁も手がけた。とくに友人でもあったバルタザール・モレトゥスが経営していた出版社 (Plantin-Moretus publishing house) から発行された版画が、ルーベンスの技量をヨーロッパ各地に広めることに貢献した。一対の美しい銅版画を例外として、ルーベンスは下絵を描くだけで、版画制作自体はルカス・フォルステルマン(英語版)のような専門家に任せていた。ルーベンスは当時を代表する版画家ヘンドリック・ホルツィウスのもとで修行した版画家を多く雇い入れている。また、ルーベンスは自身が関係した版画に関する版権を確立しており、とくに版画の複製が大量に行われていたホラントで複製版画の横行を抑制することに成功した。ルーベンスは後に、イングランド、フランス、スペインでも自身の作品に対する版権を認めさせることに成功している。 『キリスト降架』(1611年 - 1614年)聖母マリア大聖堂(アントウェルペン) 『ライオンの穴の中のダニエル』(1613年 - 1615年)ナショナル・ギャラリー・オブ・アート(ワシントンD.C.) 『鏡を見るヴィーナス』(1614年 - 1615年頃)プライベート・コレクション 『イサベル・クララ・エウヘニア王女』(1615年)美術史美術館(ウィーン) 『オレイテュイアを略奪するボレアス』(1615年頃)造形美術アカデミー絵画館(ウィーン) 『レウキッポスの娘たちの略奪』(1617年頃)アルテ・ピナコテーク(ミュンヘン) 『デキウス・ムスの死』(1618年)
※この「アントウェルペン時代(1609年 - 1621年)」の解説は、「ピーテル・パウル・ルーベンス」の解説の一部です。
「アントウェルペン時代(1609年 - 1621年)」を含む「ピーテル・パウル・ルーベンス」の記事については、「ピーテル・パウル・ルーベンス」の概要を参照ください。
- アントウェルペン時代のページへのリンク