休戦交渉の推移
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 20:04 UTC 版)
1959年9月には、日本の元総理大臣である石橋湛山が私人として中華人民共和国を訪問、周恩来首相との会談を行い、冷戦構造を打ち破る日中米ソ平和同盟を主張。周はこの提案に同意し、台湾(中華民国)に武力行使をしないと約束した(石橋・周共同声明)。 1962年、大躍進政策に失敗して国力を疲弊させた中華人民共和国に対し、蔣介石は大陸反攻の好機と捉え攻撃の計画(国光計画)に着手した。しかし、全面戦争に発展することを恐れたケネディ政権は国光計画に反対を表明、実際に軍事行動に発展することはなかった。その後は1965年に発生した偶発的な東引海戦、東山海戦、烏坵海戦を除き、両岸間での大規模な戦闘は発生していないが、緊張状態は続いている。 詳細は「台湾海峡危機」および「台湾問題」を参照 台湾海峡以外においても共産党政権はチベットを併合し(1950年)、北ベトナムに対して軍事支援を行うなどの行動を取っていた。 1964年、中国は初の核実験に成功し、大陸反攻は事実上不可能になったが、蔣介石は1975年に死去するまで大陸反攻にこだわり続けた。 詳細は「中国の核実験」および「中国の核開発」を参照 外交面ではアジア・アフリカの新興の独立国において中華人民共和国を承認する国が相次ぎ、中華人民共和国は米ソとは立場を異にする第三の大国として浮上した。反対に経済面では中華人民共和国のそれが停滞する一方、台湾はベトナム戦争の特需などにより台湾の奇跡と呼ばれる経済発展を遂げた。
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