戦国大名への方途と崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 05:02 UTC 版)
再起した隆信の時代に龍造寺氏は肥前を制圧し、北九州に勢力を広げ、さらに大友氏が日向国の耳川の戦いで島津氏に大敗すると、大友氏の混乱に乗じて大友氏の勢力圏の筑後に侵攻するなど、短期間に戦国大名としての最盛期を築き、九州北東の雄である大友氏を圧倒するに至る。九州中央部への進出のため筑後の領有を狙い、蒲池氏の柳川城を攻めたが、攻め落とすことができず、その堅城ぶりに手を焼いた隆信は、恩ある蒲池鑑盛の嫡男で、娘婿でもある蒲池鎮漣を騙し討ちにし、さらにその一族を殺戮し柳川を制圧した。蒲池氏に対する仕打ちは、田尻氏や黒木氏など筑後の国人達の離反を招くこととなり、隆信は、彼らとの戦いに手を焼くことになる。そして天正12年(1584年)には沖田畷の戦いで島津氏に敗れ、隆信も戦死した。
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