戦国大名山名氏
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政豊は山名俊豊を廃嫡して三男の山名致豊を後継者に決めて、国内混乱の決着をつけた(山名俊豊の子孫は備後に土着し備後山名氏となる)。しかし国人衆の要求を呑んだこと、またその過程で国人衆の支持を取り付けるために各種の特権を与えたため、守護権の縮小に繋がり、結果として国人衆とりわけ守護代の垣屋氏が力をつけた。家臣筋である垣屋氏に城之崎城(豊岡城)を制圧された政豊・致豊は九日市の守護所を放棄し、より守備力がある丸山川対岸の此隅山城に移ったが、そこも攻撃されるような状態となった。 さらに出雲の尼子経久、周防の大内義興、備前守護代・浦上村宗らの圧迫を受けるようになり、次第に山陰道山陽道の領国は奪われていった。 更に永正から享禄にかけて但馬・因幡両守護家では内紛状態に陥った。但馬では但馬上守護代・垣屋氏や但馬下守護代・太田垣氏らによって致豊が排除されて弟の山名誠豊が擁立され、因幡では山名豊時の子である山名豊重・豊頼兄弟が守護を争った。1528年(享禄元年)には誠豊が死去し、甥で養子の山名祐豊(致豊の子)が但馬守護家を継ぎ、同じ頃に豊頼の子・山名誠通が豊重の子・豊治から因幡守護を奪ったことで一旦は内紛は収拾された。 但馬の山名祐豊は垣屋氏・太田垣氏・田結庄・八木氏ら但馬の有力国人衆を次々と武力で征した。更に一族で因幡山名家の山名誠通が尼子氏の従属下に入る(尼子晴久から偏諱を得て改名し、因幡国の支配権を譲り渡す)とこれを討ち、弟の豊定を因幡へ派遣し因幡守護代(陣代)とすることで、「因幡守護家の山名誠通の遺児が成長するまで政務を後見する」という形で因幡を実質支配した。また、因幡の国人たちに対してもこれを武力で従え、地位を失いつつあった守護大名山名氏を但馬因幡の戦国大名山名氏へと成長させた。なお、正式な守護職は幕府より、出雲尼子氏に与えられていた。豊定の没後はその地位を祐豊の長男の山名棟豊が継いだが早世したため、豊定の子の山名豊数が継承し、また誠通の子山名豊儀が一時期、出雲の尼子氏に支援されて因幡守護家を再興していたともいわれている[要出典]。 さらに、新興勢力である毛利元就とも手を結び、あるいは対立し、因幡国人および因幡守護家を支援して勢力を拡大しようとする出雲尼子氏ら周辺諸国と抗争を続けた。
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