戦国大名山名氏とは? わかりやすく解説

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戦国大名山名氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 14:33 UTC 版)

山名氏」の記事における「戦国大名山名氏」の解説

政豊は山名俊豊を廃嫡して三男山名致豊後継者決めて国内混乱決着をつけた(山名豊の子孫備後土着備後山名氏となる)。しかし国人衆要求呑んだこと、またその過程国人衆支持取り付けるために各種特権与えたため、守護縮小繋がり結果として国人衆とりわけ守護代垣屋氏が力をつけた。家臣筋である垣屋氏城之崎城(豊岡城)を制圧された政豊・致豊は九日市守護所放棄し、より守備力がある丸山川対岸此隅山城移ったが、そこも攻撃されるような状態となった。 さらに出雲尼子経久周防大内義興備前守護代・浦上村宗らの圧迫を受けるようになり、次第山陰道山陽道領国奪われていった。 更に永正から享禄にかけて但馬因幡守護家では内紛状態に陥った但馬では但馬守護代垣屋氏但馬守護代太田垣氏らによって致豊が排除されて弟の山名誠豊擁立され、因幡では山名豊時の子である山名豊重・豊頼兄弟守護争った1528年享禄元年)には誠豊が死去し、甥で養子山名祐豊(致豊の子)が但馬守護家を継ぎ、同じ頃に豊頼の子山名誠通が豊重の子・豊治から因幡守護奪ったことで一旦は内紛収拾された。 但馬山名祐豊垣屋氏太田垣氏田結庄・八木氏但馬の有力国人衆次々と武力征した。更に一族因幡山名家山名誠通尼子氏従属下に入る(尼子晴久から偏諱得て改名し因幡国支配権譲り渡す)とこれを討ち、弟の豊定を因幡派遣し因幡守護代陣代)とすることで、「因幡守護家の山名誠通遺児成長するまで政務後見する」という形で因幡実質支配したまた、因幡の国人たちに対してもこれを武力従え地位失いつつあった守護大名山名氏但馬因幡の戦国大名山名氏へと成長させた。なお、正式な守護職幕府より、出雲尼子氏与えられていた。豊定の没後はその地位を祐豊の長男山名棟豊継いだ早世したため、豊定の子山名豊数継承し、また誠通の子山名豊儀が一時期出雲尼子氏支援され因幡守護家を再興していたともいわれている[要出典]。 さらに、新興勢力である毛利元就とも手を結び、あるいは対立し因幡国人および因幡守護家を支援して勢力拡大しようとする出雲尼子氏周辺諸国抗争続けた

※この「戦国大名山名氏」の解説は、「山名氏」の解説の一部です。
「戦国大名山名氏」を含む「山名氏」の記事については、「山名氏」の概要を参照ください。

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