戦国大名伊達氏の武将
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/02 23:50 UTC 版)
形式的には臣下にならなかったものの、政重の下で国分氏は伊達氏に従属した。国分氏はかつて北隣の留守氏と戦いを繰り返したが、留守氏にも政重の兄留守政景が養子に入ったため、両氏の戦いは止んだ。時期は不明だが、政重は小泉城(若林城の前身または近接地)から松森城に移り住んだと江戸時代の地誌に伝えられる。 治者としての盛重は、陸奥国分寺の衰微を憂えて寺のために殿堂を建てた。おそらくそれに関連して、天正13年(1585年)には国分寺の本尊をおさめるための小厨子を作らせた。 国分政重は、天正13年(1585年)11月17日の人取橋の戦いに参加し、主力の一部として政宗の本陣がある観音堂山の麓に展開し、攻め寄せてきた佐竹・蘆名連合軍と戦った。
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