第二次川中島の戦いとは? わかりやすく解説

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第二次川中島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:10 UTC 版)

旭山城」の記事における「第二次川中島の戦い」の解説

天文24年1555年)、第二次川中島の戦いで、善光寺別当栗田鶴寿栗田寛久)は武田晴信武田信玄)と通じ鉄砲300と弓800、兵3000支援受けて善光寺の西にあるこの旭山城に籠もった。 長尾景虎上杉謙信)は、善光寺東側にある横山城に陣を構えていたが、謙信付城となる葛山城裾花川対岸山上築いた対陣数ヶ月及んだが、今川義元仲介和議成立した和議条件として旭山城破壊盛り込まれ破壊された。

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第二次川中島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:06 UTC 版)

武田信玄」の記事における「第二次川中島の戦い」の解説

天文24年1555年)、武田方の善光寺別当栗田永寿旭山城長野県長野市)に籠る。これに対し長尾景虎裾花川挟んで対岸葛山城築城天文24年1555年)、川中島において200日余長尾軍と対陣した今川義元仲介和睦両軍撤兵和睦条件武田方の旭山城破砕があり、破砕された。 弘治2年1556年)、長尾家家臣大熊朝秀離反し会津蘆名盛氏と共に越後侵攻するが撃退された。

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第二次川中島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:48 UTC 版)

上杉謙信」の記事における「第二次川中島の戦い」の解説

天文23年1554年)、家臣北条高広武田通じて謀反起こしたが、天文24年1555年)には自らが出陣し高広居城北条城包囲し、これを鎮圧した北条城戦い)。高広帰参許されるこの間武田晴信善光寺別当栗田鶴寿味方につけ旭山城支配下置いた。 これに対抗するため、景虎同年4月に再び信濃国出兵し、晴信と川中島犀川挟んで対峙した(第二次川中島の戦い)。また、裾花川挟んで旭山城相対する葛山城築いて付城とし、旭山城武田軍牽制させた。景虎は、犀川渡河試みるなど攻勢をかけたものの、小競り合い終始して決着はつかず。対陣5ヶ月に及び最終的に晴信が景虎に、駿河国今川義元仲介の下で和睦願い出る武田方の旭山城破却武田奪った川中島所領を元の領主返すという、景虎側に有利な条件であったため、景虎和睦受け入れ軍を引き上げた弘治2年1556年3月景虎家臣同士領土争い国衆紛争調停心身疲れ果てたため、突然出家隠居することを宣言し同年6月には天室光育遺書託し(『歴代古案』)、春日山城をあとに高野山に向かう。 しかしその間、晴信に内通し家臣大熊朝秀反旗を翻す天室光育長尾政景らの説得出家断念した景虎越後国帰国一端越中退き再び越後侵入しようとした朝秀を打ち破る駒帰戦い)。

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