室町・戦国期遺構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 21:25 UTC 版)
現在の竹田城は赤松広秀に総石垣に作り替えられた城郭であるが、太田垣氏時代の遺構も一部残っている。1990年(平成2年)-1991年(平成3年)に実施された縄張り調査によると、南千畳曲輪下には大小10本の竪堀群がある。竪掘とは、敵が攻城した時に、敵兵士が横移動出来ないようにする遺構で、連続した竪掘によって表面が凸凹する形状から、畑の畝に例えて「畝状竪堀」と呼ばれている。但馬国では天正8年から13年頃に盛んに「畝状竪堀」が出現する防御施設である。これらの遺構群は戦国期の竹田城の一部であろうと見られている。また北千畳曲輪から北東に延びる尾根沿いに200mの地点に、標高313mの観音寺山城と呼ばれる遺構がある。城郭は南北100m、東西70mの小規模な城郭で曲輪は2つしかない。またこの城の横堀から4本の畝状空堀群がある。この畝状空堀は太田垣氏時代と推定され、この観音寺山城は太田垣氏時代に竹田城まで一体化した城で、城域は観音寺山城と竹田城を併せて南北750m東西300mにわたって広がった大規模な城郭であったことが判明している。 竹田城の二の丸と三の丸周辺に堀切と竪掘があったと思われ、現在の竹田城には確認できないが、観音寺山城と同様、横堀と畝状空堀が本丸西斜面にはあったと推定されている。竹田城の石垣の下には、戦国期の遺構が残っている可能性も指摘されている。 また戦国期の城郭の特徴として土塁がある。土塁は観音寺山城では確認できていない。また竹田城の支城にも部分的にしか土塁が使われていない。このことから『史跡・竹田城跡』によると竹田城では「土塁は多用されていなかったと思われる」としている。
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