室町・戦国期の様相
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室町・戦国期にも大原荘に関する記録が散見される。江戸時代後期に編纂された『甲斐国志』に拠れば、南北朝時代には現・富士河口湖小立の常在寺に伝来する日授(貞和(1345年)元年没)『円極実義抄』に大原荘に関する記録が見られる。『円極実義抄』下巻の奥書は某年6月24日の年記を持ち、「甲斐国都留郡大原庄小館常在寺」と記述されている。また、常在寺に伝来する年代不詳『雲州往来』奥書にも大原荘に関する記述が見られる。 文明7年(1475年)8月3日には冨士御室浅間神社の神田の境を記した小林正喜証文(「冨士御室浅間神社文書」)奥書に「大原かた山御むろのかきとりの御方へ」の覚書が見られる。また、富士河口湖町大嵐の蓮華寺が所蔵する文亀3年(1503年)9月8日の年記を持つ日蓮像台座の墨書銘には「大原之庄内大嵐郷」の記載が見られる。 戦国時代には富士北麓の年代記である『勝山記』では富士北麓の広域呼称として「大原」の地名が見られる。『勝山記』原本の筆写は天文年間に吉田(富士吉田市)に在住していたが、吉田に対する広域呼称として「大原」が用いられており、河口湖は「大原ノ海」「大原海ミ」、鵜の島は「大原ノ嶋」と呼称されている。 『勝山記』によれば、明応7年(1498年)8月28日の嵐では、西海・長浜・大和田などの地域が「大原悉ク」山津波に遭い多くの死者を出したという。 永正18年/大永元年(1521年)2月18日には甲斐守護・武田信虎が都留郡の小山田氏を訪問する途中で、「大原舟津」(現・富士河口湖町船津)に所在する小林宮内丞(小林尾張守)を訪ね一泊し、翌日には小山田氏の居館である中津森館(都留市中津森)へ向かったという。 此年ノ二月十八日武田殿大原船津小林宮内丞殿へ御出有之、明ル日中津森へ御下候(後略) — 『勝山記』永正18年/大永元年条 小林氏は小山田氏の家老で、当荘において勢力を持った土豪として知られる。『勝山記』永正18年条に登場する二代小林尾張守は小林正喜の子孫で、この系統は代々、宮内丞・尾張守を名乗る一族で、船津から下吉田を勢力圏とした。二代・小林尾張守は初代尾張守(道光)の子である。
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