河村秀清
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/18 05:06 UTC 版)
河村 秀清(かわむら ひできよ、治承元年(1177年) - 没年不詳)は、鎌倉時代の武将・御家人。相模国足柄郡河村郷(現・神奈川県足柄上郡山北町)の住人。藤原氏秀郷流、波多野氏の一族。幼名は千鶴丸、通称は四郎(河村四郎)。
注釈
- ^ 建久元年(1190年)の鶴岡八幡宮での流鏑馬で三尺・手挟・八的などの難しい的を見事に射抜くという技を披露し、頼朝よりその武芸を見込まれて許されたという[3](コトバンク「河村義秀」の項 より)。
- ^ この元服は、進軍中の隅田宿(現在の隅田川の付近)における結城朝光の元服(治承4年(1180年)10月2日、烏帽子親は源頼朝、典拠は『吾妻鏡』)の時と同じように、御所ではなく、戦場で急に設営されたものであった。そのため、幕府の行事らしき体裁も備わっていないが、その不備が問題になったという様子も見られないことから、場所や体裁よりも将軍の御前で元服したか否かが重要であり、列参者や引出物等は副次的な問題に過ぎなかった。このように将軍が烏帽子親になった元服の儀式は、公式なものというよりは、将軍と御家人との私的な関係に基づいて行われていたと考えられる(山野論文、同頁)。
- ^ 山野龍太郎論文 表2(山本、2012年、p.166)の「将軍が烏帽子親を指名したケース」の一例として挙げられている。このパターンの例としては他に、同じく『吾妻鏡』に見られる北条時連(のちの時房、烏帽子親は三浦義連)、北条政村(烏帽子親は三浦義村)の事例が紹介されている。なお、秀清が元服した当時、頼朝は将軍(=征夷大将軍)にはまだ任命されていないが、鎌倉幕府の成立時期を頼朝がそれに任命される建久3年(1192年)よりも前であるとする説が唱えられており(→鎌倉幕府#成立過程の概略を参照)、いずれにせよ頼朝が御家人の上に立つ存在であったとみられる。
- ^ 元服にあたっては、それまでの童名(幼名)が廃されて、烏帽子親から仮名(通称名)と実名(諱)が与えられるが、その際にその実名の一字(偏諱)の付与がなされることが多い[6]。言い換えれば、偏諱を賜うということは烏帽子親子関係を結ぶことを意味していた[7]。
- ^ 別名「河村館」、「館平」とも呼ばれ、眼下には北上川が流れ、背後には北上山地の連山をひかえる要害の地であった。館山に残る大巻館跡には、三重の濠と土塁がめぐらされた戦国期の遺構が残されており、その規模の大きさから、考古学的には河村氏の本拠はこの大巻館であったものと考えられている。[要出典]
出典
- 河村秀清のページへのリンク