上杉氏の事例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 08:10 UTC 版)
上杉氏(米沢藩)は、出羽国置賜郡の米沢城を本拠としたが、陸奥国信夫郡の福島城には本庄氏(時期によっては芋川氏の大森城も使用)、陸奥国伊達郡の梁川城には須田氏を入れて(同郡にある大石氏の保原城も使用 )信達(しんたつ)両郡を統治させた。1664年(寛文4年)の半知以後も福島城は破却される事なく、天領(約20万石)および堀田氏を経て、1702年(元禄15年)以降も板倉氏の居城として機能した。 一方で梁川城は、梁川藩に入った尾張藩連枝が定府大名とされた事から、櫓や城主館など一部を家老の陣屋として残し、残りの建物を破却した。保原城は寛保2年(1742年)に白河藩の保原陣屋として再建されている。 出羽国置賜郡にあった鮎貝城(下条氏)、荒砥城(泉沢氏)、中山城(横田氏)、小国城(松本氏・西条氏・奈良沢氏)などは、伊達氏が「要害」と称したのと同様に、上杉家では「役屋」と改称して維持し続けた(預かり地の高畠城は例外。城内に織田氏の高畠陣屋あり)。ただし、一城令からも寛文半知からも相当の年数が経過している点から、幕府に遠慮したためではなく、城主の知行や経費削減を目的とした改称の色合いが強い 。 また、館山城は、破却とは逆に石垣が上杉家により新たに築かれた事が近年の発掘で判明した。「打込接(うちこみはぎ)」という1616年以降の積み方になっている。同城は元和偃武以降の幕府提出絵図や藩の記録に「城山」「古城」などと記載があり(寛文半知よりあとも「役屋」でなく「城」と称している)、今後の研究課題とされている。
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