古戦場の現在
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/25 22:55 UTC 版)
松川と福島城 合戦の当時の松川は信夫山南麓を流れていたが、現在は北麓を流れている。当時の松川の跡は現在は祓川と呼ばれる小さな川の辺りが水路だったと言われている。 杉妻大仏堂(略)むかし松川 信夫山の南を流れしと云(今の祓川是なり) 東国太平記に松川合戦とあるは山の南を流通せし時なり(略) — 「信達一統志」巻之二 杉妻荘 御山邨 払川 祓川トモイフ(略)此川慶長年間マテ松川ト称ス 明暦万治ノ頃洪水有テ二派ニ分ル 以来今ノ信夫山北ノ川ヲ松川ト称シ 此川ヲ払川ト称スト云伝フ — 「信達二郡村誌」村誌 岩代国信夫郡小山荒井村 また、政宗が陣を敷いた信夫山の黒沼神社のあたりは現在は信夫山公園として整備され、花見の名所となっている。戦いの激戦地は現在の福島市街地の中心部であり、面影は全くない。一方、本庄繁長の居城・福島城は福島県庁となっている。 梁川城 梁川城は、江戸時代になって廃城となり、その後梁川藩の陣屋として使われた。明治維新後は学校敷地として使われ、現在、城跡は、梁川中学校、梁川高等学校として使用され、近隣にも土塁や掘の遺構がある。何度か発掘調査が行われ、梁川小学校校庭の片隅に中世庭園も復元され、梁川城跡は県指定史跡となっている。鎌倉時代から室町時代の伊達氏歴代の居城として有名であるが、現在の遺構はむしろ伊達政宗移封後の、蒲生氏時代または上杉氏時代に、対伊達氏政策で防備を強化して改築されたものであると考えられている。 大枝城 大枝城(大條城、おおえだじょう)は、梁川中心市街(梁川城下)から国道349号線を1.5kmほど北上して阿武隈川を越えると、左手に見える。当時、梁川城に対峙して伊達軍が布陣した。梁川城も小高い平山城であり、梁川城と大枝城からは、阿武隈川を挟んで相互に相手方がよく見える。現在の大枝城はほとんどが桃畑になっており、私有地である。しかし、大枝城の案内看板もあり、山頂までの散歩道と、頂上に少し開けた広場があり(本丸跡)、祠が建っている。途中には土塁・空堀跡がはっきりと残されている。春になると空堀から本丸跡にかけて一面を桜の花が咲き誇り、地元有志によってライトアップされる。なお、大枝城は、伊達氏の伊達郡領有時代には大枝氏(大條氏)の支配城であった。 国見 伊達軍が布陣した国見の厚樫山(あつかしやま)の山麓は「阿津賀志山防塁」の名称で国の史跡に指定されているが、源頼朝の奥州藤原氏征伐の史跡としてであり、伊達政宗の福島侵攻の本陣が置かれたことはそれほど知られていない。厚樫山の山頂には、現在展望台があり、国見という地名のとおり、福島盆地、特に伊達郡の梁川、保原方面を一望することができる。
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