天領および梁川藩の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 03:43 UTC 版)
寛文4年(1664年)、上杉綱勝が後継者を決めぬまま急死し、本来ならば改易になるところを吉良義央の長男・綱憲を養子に迎えることによって上杉家の存続が認められるという騒動の際に、上杉領は30万石から15万石となり、梁川城を含む伊達郡(および信夫郡と置賜郡屋代)は没収され、天領(約20万石)となった。この時、梁川城は廃城となった。しかし、本丸や北三の丸の櫓および城主館をふくめ、城の一部はその後も梁川藩松平氏などの陣屋として使用されている。 江戸時代中期以降の梁川は天領となったり、2度にわたって梁川藩(松平氏、松前氏)となったり、あるいは会津藩や磐城平藩や松前藩の飛び地となったり、めまぐるしい。そのため、梁川に関する江戸時代の資料は他藩に残されているものも多い。また、かつて梁川城が統治した伊達郡のうち11村は刈谷藩(土井氏)の領地となり、幕末まで湯野に陣屋が置かれた。
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