天領時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 17:20 UTC 版)
天領地となった飛騨高山には代官として関東郡代の伊奈忠篤が兼任で入り、加賀金沢藩主の前田綱紀が高山城在番となった。高山城の維持が難しくなった幕府は元禄8年(1695年)に取り壊しを決め、それ以後飛騨高山代官・郡代は金森家の下屋敷であった高山陣屋にて政務を行った(ただし、高山陣屋在勤制の成立は長谷川忠崇が代官であった元文3年(1738年)とする説もある)。 正徳5年(1715年)森山実道が専任の代官に任じられたが、安永6年(1777年)に代官の大原紹正が飛騨一国の検地に成功した功績を高く評価されて、飛騨郡代に任命された(なお、紹正への評価の高さは、一代のみとは言え嫡子正純への郡代世襲が許されている点からもうかがえる)。 飛騨郡代は役高400俵で布衣着用が許され、代官としては関東・美濃・西国筋に次ぐ第4位の序列だった。後に白山一帯の幕府領及び美濃国・加賀国・越前国に散在する幕府領の支配も任され、越前本保(現在の福井県越前市)・美濃下川辺(現在の岐阜県川辺町)に出張所が置かれていた。文化2年(1805年)には10万8千石、天保9年(1838年)には11万4千石を支配していた。安政5年(1858年)の史料では郡代支配の属僚が24名、旧金森氏遺臣などからなる世襲の地役人が49名いたとある。幕末の新見正功に至るまで25人の代官が飛騨を支配した。なおこの高山陣屋は江戸時代の陣屋の中で唯一現存しており、保存・修復工事を行って国の史跡に指定されている。明治維新に至るまで、25代177年間のうち、14代92年が飛騨郡代の支配であった。 明治元年(1868年)、飛騨は明治政府によって収公され、飛騨県、高山県、筑摩県を経て岐阜県に編入された。
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