山田渡辺氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/10 10:12 UTC 版)
![]() |
山田渡辺氏 (備後渡辺氏) | |
---|---|
![]() | |
本姓 | 称・嵯峨源氏源融流渡辺氏 |
家祖 | 渡辺基? |
種別 | 武家 |
出身地 | 備後国深津郡山田荘 |
主な根拠地 | 沼隈半島全域 |
著名な人物 | 渡辺元 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
山田渡辺氏(やまだわたなべうじ)は、現在の広島県福山市熊野町上山田/下山田にある沼隈半島一帯を領有し、山田一乗山城主であった武家、渡辺氏綱流の渡辺省の後裔と称した家柄である。
歴史
渡辺基の子の持は足利尊氏に従って武功をあげ、備後国深津郡山田荘の地頭職を与えられた。持のあと、忠・直・重と代々続いた。
応仁の乱において、山田渡辺氏は東軍についた。
渡辺元と足利義昭
渡辺元[注釈 1]は、将軍・足利義昭が織田信長によって京都から追放されたのち、毛利輝元の後ろ盾の下で義昭に近侍し、その身辺を警固した。それゆえ、渡辺一族の群を抜いた活躍に義昭が感動したことにより、白傘袋と毛氈鞍覆の使用を許す御内書が下された。白傘袋と毛氈鞍覆は、室町時代守護大名家に許された印であり、山田渡辺氏のような地方の国人にこれを認めたことは、既に義昭の周囲に旧・幕臣が近侍していないことを端的に示している。
没落
山田渡辺氏は関ヶ原の戦いで西軍につき、戦後に徳川家康から一乗山城退去を命じられ、その後は没落していくことになった。以後、新たに入封してきた福山藩主の水野勝成に仕えた。なお、水野氏の時代は側室を出すなどそれなりの家格を保っていたが、幕府領時代・阿部家時代になると、次第に再び没落していったという。
脚注
注釈
出典
- ^ 『渡辺氏由縁書』[要文献特定詳細情報]
関連項目
山田渡辺氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 00:27 UTC 版)
渡辺綱の後裔とされる渡辺元は、織田信長が将軍・足利義昭を京都から追放したのち、毛利輝元の後ろ盾の下置いた鞆幕府で義昭に近侍し、また渡辺一族の群を抜いた活躍に義昭が感動したことで白傘袋と毛氈鞍覆の使用を許された。白傘袋と毛氈鞍覆とは室町時代守護大名家に許された印であり、山田渡辺氏はこれにより守護大名家と同格扱いになった。 関ヶ原の戦いでは毛利氏に従い西軍につくも敗北、江戸幕府から一乗山城退去を命じられる。その後は新たに入封してきた福山藩主の水野氏に仕えた。なお、水野氏の時代は側室を出すなどそれなりの家格を保っていたようだが、天領時代・阿部氏時代と、時が下るに連れてそうしたこともなくなっていったようである。
※この「山田渡辺氏」の解説は、「渡辺氏」の解説の一部です。
「山田渡辺氏」を含む「渡辺氏」の記事については、「渡辺氏」の概要を参照ください。
- 山田渡辺氏のページへのリンク