伊達氏の時代
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1413年(応永20年)に伊達松犬丸(後の伊達持宗)が懸田定勝と共に鎌倉公方へ反乱を起こした際に立て籠もった大仏城が後の福島城といわれる。大仏城は後に杉妻城(または杉目城)と改められ、天文の乱後は伊達氏家臣の牧野相模守の所領になっている。後、伊達晴宗が嫡子・輝宗に家督を譲って隠居した際に米沢城から杉目城へ移った。このころの信夫郡(現在の福島市一帯)の中心的城郭は晴宗の弟・伊達実元の居城・大森城であり、杉目城は単に晴宗の隠居城としての性格しか持ち合わせていなかった。その後、1577年(天正5年)に晴宗が死去すると、晴宗夫人・裁松院(久保姫)と晴宗末子・直宗が居住した(直宗は天正12年に死去)。1591年(天正19年)の奥州仕置で信夫郡が蒲生氏郷領になると、裁松院は杉妻城を出て、孫の政宗に従って岩手沢(築城の後に岩出山に改名)へ去った。
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伊達氏の時代
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一説には文治5年(1189年)に伊達氏の伊達郡入りとともに築城されたともいうが、文献上明確なのは室町時代の応永33年(1426年)以降である。一方、発掘調査で発掘された遺物の最も古いものは、伊達氏3代伊達義広(1185年 - 1256年)または4代伊達政依(1227年 - 1301年)のころと推定されており、このころには築城されていたと考えられる。 伊達氏は源頼朝の奥州征伐で功を立て、源頼朝に伊達郡を賜った関東武士で、伊達郡に入植して伊達氏を名乗るようになった。伊達郡は鎌倉時代以降、豊臣秀吉によって16代伊達政宗が転封するまで伊達氏の本拠地だった。梁川城は、4代伊達政依のころから、天文元年(1532年)に伊達稙宗が桑折西山城へ移るまで、300年弱にわたって伊達氏の本城だったと考えられている。城の北方には伊達氏の氏神の梁川八幡宮があり、また、近隣には京都五山に倣って伊達政依が創建したとされる伊達五山と称される寺院があった。伊達氏が伊達郡の地頭職、後には奥州探題職などを得たことにより、伊達郡のみならず、福島盆地全体(伊達郡と信夫郡)、あるいは南奥州の要として栄えた。 伊達氏の居城が桑折西山城、さらには米沢城に移った後も梁川城は領内の重要拠点として機能し、一族や有力家臣が城主となっていた。 なお伊達政宗の初陣は伊具郡(宮城県丸森町)での相馬氏との戦いであったが、その時に伊達軍の拠点となったのが梁川城で、政宗は梁川八幡宮に戦勝祈願をしたといわれている。また、その政宗が田村郡の田村氏から愛姫(めごひめ)を正室として迎えたとき、花嫁の受け渡しがおこなわれたのも梁川だった。
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