伊達氏との抗争
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「相馬義胤 (十六代当主)」の記事における「伊達氏との抗争」の解説
天正5年12月5日(1578年1月12日)、伊達晴宗が死去。天正6年(1578年)1月、義胤は父の隠居により家督を継承した。 3月には関東管領の上杉謙信(春日山城)が死去し、御館の乱が勃発。同3月、義胤は二階堂家臣・須田大膳大夫の援軍を得た岩城氏と、相馬領南方の松本権現堂(推定・双葉郡浪江町権現堂)で戦っている。 4月、伊達輝宗が実弟石川昭光の苦境を救わんとして調停をはかるも蘆名、田村ともにこれを峻拒。蘆名・田村氏と石川氏の和睦は昭光の依頼を受けた白川義親が蘆名氏に接触して7月下旬に成立した。8月、白川義親と佐竹義重の和睦も成立した。その条件は赤館を白川方に、石川領を石川氏に返却すること、白川氏の名跡を義重次男が相続することなどとするものであった。義重次男喝喰丸が義親の養子となって入嗣し、白川氏の佐竹氏への服属が確定することとなった。 蘆名盛氏は早くから佐竹氏との交友を策し、二階堂盛義には田村氏との連携は滅亡の途であると説いていた。 天正7年(1578年)6月には田村清顕が塩松領主小浜城の大内定綱と不和となり、8月以降抗争を繰り返すようになった。 義胤は戦において引けを取ることはなかったが、一方で天正8年(1580年)頃には黒木中務宗俊(宗元)、堀内四郎宗和(晴胤)兄弟に背かれ、2人は輝宗の下に走った。2人の父である宇多郡黒木城主・藤田七郎晴近は義胤の母と同じ懸田一族であった。天正7年(1579年)冬、輝宗が相馬と同盟していた三春城主・田村清顕の娘・愛姫を自身の嫡男・政宗の正室に迎え入れると田村氏の後援も得難くなった。 天正8年(1580年)2月には、蘆名盛隆・佐竹義重・白川義親が出陣して田村氏との合戦となった(御代田合戦)。これは伊達氏に親近する田村氏と蘆名・佐竹連合軍の最初の合戦である。蘆名・佐竹連合軍には母が佐竹義重の妹であり、この頃二階堂盛義の娘を妻とした飯野平城の岩城常隆も加えられた。田村氏は北の塩松領主・大内氏との不和が続く中、西と南の勢力から同時に攻められることとなり、3月には田村清顕の弟重顕が二階堂勢を攻めて討ち取られている。6月、この田村氏劣勢の中で蘆名止々斎が死去した。 天正9年(1581年)3月半ば、伊達輝宗が信夫郡杉目城に出馬し、使者を持って田村と蘆名・二階堂・岩城の調停に乗り出した。輝宗は田村清顕から援軍の要請を受けている。4月1日、蘆名盛隆は佐竹義重へ御代田(郡山市田村町)を包囲したことを知らせ、輝宗からの使者は申し払ったことを伝えた。 4月10日、伊達勢が相馬の支城である新地(新地町谷地小屋、蓑首城)・駒ヶ嶺城(臥牛城)を攻略せんと坂本(山元町)に出陣する。相馬父子もまた大坪(相馬市)に出陣し対陣する。4月11日、伊具郡小斎城主・佐藤為信が離反(奥相茶話記・東奥中村記 他)。5月1日、伊達勢、小深田(新地町菅谷)に出陣。相馬父子、これを破る。5月上旬、伊達政宗初陣。7月13日、これより先に伊達父子金山・丸森を攻める。この日相馬父子、矢野目にて破られる。8月9日、伊達父子、再び小深田に出陣、相馬父子も大坪に出陣。谷地(新地町)に戦って伊達父子を破る。8月26日、二階堂盛義が死去。11月15日、相馬、伊達両軍伊具郡館山(丸森町)に戦う。同年、嫡男・虎王が生まれた。 天正10年(1582年)4月18日、田村氏と蘆名・佐竹氏との和睦が成る。 天正10年(1582年)8月、伊達輝宗・政宗伊具郡金津より矢野目に出陣したため、義胤は小斉・金山の境の冥加山に出陣して対した。二本松義継(二本松城)と大内定綱(小浜城)は伊達勢を援けて参陣している。 天正11年(1583年)1月、佐竹義重・岩城常隆・田村清顕が使者を派遣し、相馬・伊達の調停を図った(奥相茶和記・東奥中村記)。2月6日、相馬氏と伊達輝宗・政宗父子は伊具郡丸森城・金山城で戦った。『相馬戦国三代記(原著・奥相茶和記)』は2月下旬、田村清顕自身が宇多郡中村城下の長徳寺に来訪し、百日ほど長徳寺に宿泊して「金山・丸森はもともと伊達領であるので、これを返して和睦されよ。」と種々の条件を示したため、これに応じて5月にまず丸森を返還し、翌天正12年(1584年)金山を返還して和睦した、としている。和議の成立の時期は天正11年(1583年)5月とする『奥相茶話記』(相馬史料)の記述と天正12年(1584年)5月とする『性山公治家記録』(伊達史料)の記述で異なっている。 某年9月15日付け蘆名盛隆の「塩松境の者共、一両ヶ所心替わり候。之(これ)によって拠んどころ無く候間、来たる十八、風雨の嫌い無く出張」(原和様漢文)するとして、小川荘の小田切但波に黒川出馬を求めた書状がある。塩松に紛争が起こり、盛隆自身が同地領主の大内定綱の支援に出陣することを述べたものであろうと推測される。 天正11年12月、蘆名盛隆は、大内家中の混乱を伊達氏が「助勢」して取り静めたことを、「盛隆の所へ御昵懇の筋目」(原和様漢文)として伊達氏に謝した(『片倉代々記』天正十一年十二月条所収文書)。大内定綱は窮境のなかで蘆名・伊達両氏に接近している。 某年4月5日、義胤は伊達政宗と金山に対陣しているが、『歴代古案』はこれを天正12年としている。蘆名盛隆は「田村表」を攻撃し、宇田(相馬市)・金山(宮城県伊具郡丸森町)の間の通路に出陣して相馬氏を攻める伊達政宗に鉄砲隊・須江弾正左衛門の援軍を送った。田村清顕は相馬義胤と連携し、二本松義継の援軍を求めつつ、二階堂領小原田(郡山市小原田)を攻めた。岩城常隆は伊達輝宗に書状を呈し、蘆名盛隆と相談して出馬したことを知らせ、「塩松の儀、御意見に及ばざれ候や。肝要[ ](の至りに候カ)。年内太(大)内所へ別して御懇切の験(しるし)、この時に候」(原和様漢文)と伝えた。 『性山公治家記録』天正12年5月下旬条には田村清顕が「(前略)当春以来又宇多郡マテ出馬シ、逗留有テ様々御扱ヒ」を行ったものの、伊達輝宗が応じず、そのため清顕は佐竹義重・岩城常隆をも介入させて、ようやく和睦がなったことが記されている。相馬氏は和睦の成立に伴い、伊達氏と協力して四本松(二本松市)の大内定綱を攻める密約を交わしたという。 田村清顕は大内定綱を五度攻めるが、自身の出馬した天正12年(1584年)8月12日の五度目の戦には弟の田村友顕が討たれ敗北を喫した。9月13日、岩城常隆が田村方の小野城を攻め谷津作(田村郡小野町)に陣を構えると10月、義胤が岩城領に攻め入ったため岩城常隆は兵を引いている。 天正12年(1584年)10月6日、蘆名盛隆死去。同月、伊達輝宗が隠居し、政宗が家督を継ぐ。 天正13年(1585年)、大内定綱が伊達氏からの離反を画策。まず相馬氏を頼りとして使いを走らせたが、義胤は大内が田村と不和であることを理由に断った(奥相茶和記)。4月、定綱は蘆名氏を頼って伊達氏から離反。5月、政宗、蘆名氏を攻め敗北する(関柴合戦)。6月14日、最上義光は岩城氏の家老三坂越前宛に書状を送り、岩城氏の会津後援を賛し、岩城氏が更に相馬氏と結んで伊達氏に対することを勧めた。 8月27日、田村勢が伊達政宗を援けて大内定綱の小手森城(二本松市針道)を攻める。9月、輝宗・政宗父子が大内定綱を攻めるべく安達郡宮森に在陣した。義胤は三春訪問の途次、政宗と小浜城・宮森城付近の陣所で初対面を果たしている。
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