伊達氏との抗争とは? わかりやすく解説

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伊達氏との抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 08:30 UTC 版)

相馬義胤 (十六代当主)」の記事における「伊達氏との抗争」の解説

天正5年12月5日1578年1月12日)、伊達晴宗死去天正6年1578年1月、義胤は父の隠居により家督継承した3月には関東管領の上謙信春日山城)が死去し御館の乱勃発。同3月、義胤は二階堂家臣・須田大膳大夫援軍得た岩城氏と、相馬南方松本権現堂推定双葉郡浪江町権現堂)で戦っている。 4月伊達輝宗実弟石川昭光苦境を救わんとして調停をはかるも蘆名田村ともにこれを峻拒蘆名田村氏石川氏和睦昭光依頼受けた白川義親蘆名氏接触して7月下旬成立した8月白川義親佐竹義重和睦成立した。その条件赤館白川方に石川領を石川氏返却すること、白川氏名跡を義重次男相続することなどとするものであった。義重次男喰丸義親養子となって入嗣し、白川氏佐竹氏への服属確定することとなった蘆名盛氏早くから佐竹氏との交友策し二階堂盛義には田村氏との連携滅亡の途であると説いていた。 天正7年1578年6月には田村清顕が塩領主小浜城大内定綱不和となり、8月以降抗争繰り返すようになった。 義胤は戦において引けを取ることはなかったが、一方で天正8年1580年)頃には黒木中務宗俊(宗元)、堀内四郎宗和(晴胤)兄弟背かれ2人は輝宗の下に走った2人の父である宇多郡黒木城主・藤田七郎晴近は義胤の母と同じ懸田一族であった天正7年1579年)冬、輝宗が相馬同盟していた三春城主・田村清顕の娘・愛姫自身嫡男政宗正室迎え入れる田村氏後援得難くなった。 天正8年1580年2月には、蘆名盛隆佐竹義重白川義親出陣し田村氏との合戦となった御代田合戦)。これは伊達氏親近する田村氏蘆名佐竹連合軍最初合戦である。蘆名佐竹連合軍には母が佐竹義重の妹であり、この頃二階堂盛義の娘を妻とした飯野平城岩城常隆加えられた。田村氏は北の塩領主大内氏との不和が続く中、西と南の勢力から同時に攻められることとなり、3月には田村清顕の弟重顕が二階堂勢を攻めて討ち取られている。6月、この田村氏劣勢の中で蘆名止々斎が死去した天正9年1581年3月半ば伊達輝宗信夫郡杉目城に出馬し使者持って田村蘆名二階堂岩城調停乗り出した。輝宗は田村清顕から援軍要請受けている。4月1日蘆名盛隆佐竹義重御代田郡山市田村町)を包囲したことを知らせ、輝宗からの使者申し払ったことを伝えた4月10日伊達勢が相馬支城である新地新地町谷地小屋蓑首城)・駒ヶ嶺城臥牛城)を攻略せんと坂本山元町)に出陣する。相馬父子もまた大坪相馬市)に出陣し対陣する。4月11日伊具郡小斎城主佐藤為信離反(奥相茶話記・東奥中村記 他)。5月1日伊達勢、小深田(新地町菅谷)に出陣相馬父子、これを破る。5月上旬伊達政宗初陣7月13日、これより先に伊達父子金山丸森攻める。この日相父子矢野目にて破られる8月9日伊達父子、再び小深田に出陣相馬父子大坪出陣谷地新地町)に戦って伊達父子を破る。8月26日二階堂盛義死去11月15日相馬伊達両軍伊具郡館山丸森町)に戦う。同年嫡男虎王生まれた天正10年1582年4月18日田村氏蘆名佐竹氏との和睦が成る。 天正10年1582年8月伊達輝宗政宗伊具郡金津より矢野目出陣したため、義胤は小斉金山の境の冥加山に出陣し対した二本松義継二本松城)と大内定綱小浜城)は伊達勢を援けて参陣している。 天正11年1583年1月佐竹義重岩城常隆田村清顕使者派遣し相馬伊達調停図った(奥相和記・東奥中村記)。2月6日相馬氏伊達輝宗政宗父子伊具郡丸森城金山城戦った。『相馬戦国三代記原著・奥相和記)』は2月下旬田村清顕自身宇多郡中村城下の長徳寺来訪し百日ほど長徳寺宿泊して金山丸森はもともと伊達領であるので、これを返して和睦されよ。」と種々の条件示したため、これに応じて5月にまず丸森返還し、翌天正12年1584年金山返還し和睦した、としている。和議成立時期天正11年1583年5月とする『奥相茶話記』(相馬史料)の記述天正12年1584年5月とする『性山公治家記録』(伊達史料)の記述異なっている。 某年9月15日付け蘆名盛隆の「塩境の者共一両ヶ所心替わり候。之(これ)によって拠んどころ無く候間、来たる十八風雨の嫌い無く出張」(原和様漢文)するとして、小川荘小田切但波に黒川出馬求めた書状がある。塩紛争起こり、盛隆自身同地領主大内定綱支援出陣することを述べたものであろう推測される天正11年12月蘆名盛隆は、大内家中の混乱伊達氏が「助勢」して取り静めたことを、「盛隆の所へ昵懇筋目」(原和様漢文)として伊達氏謝した(『片倉代々記』天正十一十二月所収文書)。大内定綱窮境のなかで蘆名伊達両氏接近している。 某年4月5日、義胤は伊達政宗と金山に対陣しているが、『歴代古案』はこれを天正12年としている。蘆名盛隆は「田村表」を攻撃し宇田相馬市)・金山宮城県伊具郡丸森町)の間の通路出陣し相馬氏攻め伊達政宗鉄砲隊須江弾正左衛門援軍送った田村清顕相馬義胤連携し二本松義継援軍求めつつ、二階堂小原田郡山市小原田)を攻めた岩城常隆伊達輝宗書状呈し蘆名盛隆相談して出馬したことを知らせ、「塩の儀、御意見に及ばざれ候や。肝要[ ](の至りに候カ)。年内太(大)内所別して懇切の験(しるし)、この時に候」(原和様漢文)と伝えた。 『性山公治家記録天正12年5月下旬条には田村清顕が「(前略)当春以来宇多郡マテ出馬シ、逗留有テ様々御扱ヒ」を行ったものの、伊達輝宗応じず、そのため清顕は佐竹義重岩城常隆をも介入させて、ようやく和睦がなったことが記されている。相馬氏和睦の成立に伴い伊達氏協力して四本二本松市)の大内定綱攻め密約交わしたという。 田村清顕大内定綱五度攻めるが、自身出馬した天正12年1584年8月12日五度目の戦には弟の田村友顕が討たれ敗北喫した9月13日岩城常隆田村方の小野城攻め谷津作田村郡小野町)に陣を構えると10月、義胤が岩城領に攻め入ったため岩城常隆は兵を引いている。 天正12年1584年10月6日蘆名盛隆死去同月伊達輝宗隠居し政宗家督を継ぐ。 天正13年1585年)、大内定綱伊達氏からの離反画策。まず相馬氏頼りとして使い走らせたが、義胤は大内田村不和であることを理由断った(奥相和記)。4月、定綱は蘆名氏頼って伊達氏から離反5月政宗蘆名氏攻め敗北する関柴合戦)。6月14日最上義光岩城氏家老三坂越前宛に書状送り岩城氏会津後援賛し岩城氏が更に相馬氏結んで伊達氏対することを勧めた8月27日田村勢が伊達政宗援け大内定綱小手森城二本松市針道)を攻める。9月、輝宗・政父子大内定綱攻めるべく安達郡宮森に在陣した。義胤は三春訪問途次政宗小浜城宮森城付近陣所初対面果たしている。

※この「伊達氏との抗争」の解説は、「相馬義胤 (十六代当主)」の解説の一部です。
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