関ヶ原の戦いへの対応とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 関ヶ原の戦いへの対応の意味・解説 

関ヶ原の戦いへの対応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 22:46 UTC 版)

佐竹義宣 (右京大夫)」の記事における「関ヶ原の戦いへの対応」の解説

慶長5年1600年5月3日徳川家康会津征伐のため東国諸大名京都招集した。義宣もこれに応じ同年5月中旬京都到着した同年6月6日招集され諸大名進撃路が発表され、義宣は仙道口を任されることとなり、水戸帰った慶長5年1600年7月24日小山到着した家康は、水戸にいた義宣に使者派遣し上杉景勝討伐改め命じたこの際家康使者は、人質上洛させるよう要求したが、義宣は、会津征伐豊臣秀頼に代わって実施されるものであり、自身は秀頼に逆らう意志はないか新たな人質を出す必要はいとしてこの要求断ったまた、家康は、佐竹氏預けられていた花房道兼を呼び出して、義宣の動向確認した。 この時期佐竹氏動向は、家中意見分かれており、東軍につくとも西軍につくともいえないものであった。 義宣は、慶長5年1600年7月19日ころ、上杉景勝との間で上杉方に与する旨の密約交わしたようであり、自軍赤館以北への進軍差し止めた。しかし義宣自身密約交わしたものの、佐竹氏内部積極的に石田方に付こうとする空気醸成されておらず、義宣は内部意志統一なされていない状態で密約交わしてしまったとも指摘されている。 8月25日、義宣は突如として水戸城引き上げた。義宣は家康対し重臣小貫頼久使者として派遣し水戸城帰った理由釈明させた。また、佐竹家中における東軍徳川方への加担訴え主張(特に父・義重は、東軍への加担強く主張した)に抗し切れなかった義宣は、上田城拠る真田昌幸攻撃していた徳川秀忠への援軍として、佐竹義久率いさせた300騎を送った。しかし、義宣自身積極的に徳川家康味方はしなかった。 関ヶ原の戦い東軍勝利に終わると、西軍敗北後、父・義重はただちに家康戦勝祝賀する使者送り、さらに上洛して家康不戦謝罪した。これに対す秀忠からの礼状届いたが、家康からの礼状あったか否かは不明である。しかし義宣は居城である水戸城動かずそのまま2年経過した上杉氏島津氏処分決定し処分済んでいないのは佐竹義宣のみとなった。その上謝罪ら行っていなかったが、それでも義宣は動かなかった。しかし、義重の説得により1602年4月上洛し、ようやく家康謝罪した。 この時、義宣は家康陳謝すべく伏見へ向かう途中相模国会った秀忠に対して陳謝し伏見到着した後、家康にあって謝罪及び家名存続懇願をした。 『徳川実紀によれば徳川家康は、義宣のことを、「今の世佐竹義宣ほどの律儀な者はみたことがない」「しかし、あまり律儀すぎても困る」と評したとされるが、これは会津征伐における義宣の態度念頭に置いたのである

※この「関ヶ原の戦いへの対応」の解説は、「佐竹義宣 (右京大夫)」の解説の一部です。
「関ヶ原の戦いへの対応」を含む「佐竹義宣 (右京大夫)」の記事については、「佐竹義宣 (右京大夫)」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「関ヶ原の戦いへの対応」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「関ヶ原の戦いへの対応」の関連用語

関ヶ原の戦いへの対応のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



関ヶ原の戦いへの対応のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの佐竹義宣 (右京大夫) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS